今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカの福音書 2章11節)
(使徒の働き 2章8-18節)
夜番をしていた羊飼いたちのところに天使が現れ、「見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」と救い主の誕生を知らせた。福音は私たちに大きな喜びをもたらすものであり、どんな人にも与えられる。「ひとりも滅びることなく」(ヨハネの福音書 3章16節)救われてほしいという神の熱い思いがそこにある。そして「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(11)と、今から2千年前にダビデの家系から、ベツレヘムで生まれたイエスだけがキリストであると明言している。
幼子の家を探し出しキリストにまみえた羊飼いたちは、喜びの知らせを人に伝えるものとなった。私たちも福音を伝える者となり、主の栄光をあらわしていきたい。
マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカの福音書 2章6-7節)
全世界の住民登録をせよという勅令のもと、ヨセフとマリアはナザレからベツレヘムへの長い道のりを旅することとなった。なぜマリアが身重となっているこのタイミングなのかと不平を漏らしたくなる状況であったが、このことにより、救い主はダビデの家系からベツレヘムで生まれるという預言が成就することになり、またこのイエス・キリストだけがまことの救い主であることの証明ともなっている。町はごった返していて二人は宿屋に泊まれず、そこで産気づいたマリアは出産し、生まれた幼子は飼葉桶に寝かされた。
キリストは、暗く汚く腐っているような私たちのところに来てくださり、まことの光で照らし、私たちをきよめ、芳しい香りで満たしてくださるただお一人のまことの救い主なのである。
それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイの福音書 2章 11節)
東の方の博士たちは、新しい星の出現を観測してユダヤの国の新しい王が誕生したことを知り、ユダヤまで長旅をし、ヘロデ大王に謁見する。「新しい王はどこに?」という彼らの問いに、自分の立場を脅かすその存在を葬り去ろうとヘロデは画策し、識者からキリストはベツレヘムで生まれることを聞き出し、「私も行って拝むから幼子について詳しく知らせて欲しい」と王たちに情報提供を求める。ベツレヘムに向かう博士たちを星が幼子のいる家まで導き、ついにキリストにまみえた博士たちは、黄金・乳香・没薬という最上の贈り物をささげ、礼拝した。当初は国交のために祖国を旅立ったであろう博士たちは、神の導きによりキリストを目の当たりにしたことを通して、主を信じたのかもしれない。
キリストを求める者はまことの光である救いを見出すことができる。主を信じる私たちは神の前にどれだけのものをささげているだろうか。神はそのささげものを祝福しようと待っておられるのだ。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書
1章 21節)
2千年前、若く婚約中のマリアに天使が現れて、救い主を聖霊によって胎に宿すことを知らされる。この事実に恐れ戸惑ったのは、マリアだけでなく夫となるヨセフも同じであった。二人ともダビデの家系ではあったが。ヨセフがイエスの養父となることを受け入れたことで、預言のとおりに法的にも血統としてもダビデの家系からメシアが誕生することとなった。ダビデの血統であり聖霊によって来られたこのイエス様だけがまことの救い主なのである。
人間の思いや人間のつながりでなく、聖霊によって救いはもたらされる。この全知全能の神のみわざが私たちにもあらわされることを信じる、それがクリスマスを迎えるということなのである。
神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。
(コリント人への手紙第二 1章 22節)
(ヨハネの福音書15章より)
キリストは、「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません」と語る。キリストがこの世に来て、人として生まれ、全国を聖書の真理を語って巡り、病人を癒やし、弱者の味方になり、そして十字架で全人類の罪を贖うために十字架にかかり神の呪いを受け、贖いのわざを完成された。ここに神の愛と義が現されている。このキリストの姿・みわざこそが、神のことばであり啓示である。このキリストを見て福音を聞きながら、なおも神を否定しキリストを信じない者は、永遠の滅びを免れることができず、弁解の余地はない。
しかし、キリストを信じる者は「約束の聖霊によって証印を押され」(エペソ人への手紙 1章 13節)、この証印は決して消えることがない。そして、「助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証しして」(26)くださる。主を信じる私たちには御霊が与えられ、内住の御霊から証しが生まれてくる。キリストは私たちを「初めからわたしと一緒にいた」(27)者と呼んでくださるのだ。
ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。(テサロニケ人への手紙第一 5章 11節)
(使徒の働き18章19~28節より)
第2次宣教旅行を終えて帰途につくパウロは、船の便の都合で立ち寄ったエペソでも宣教をし、これが後のエペソ教会の誕生の礎となったと言える。パウロはエルサレム教会にあいさつと報告をしてからアンティオキア教会に戻り、しばらく滞在した後、また出発し、ガラテヤの地方やフリュギアを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。パウロは宣教旅行において伝道のほかに信者を励ますことを忘れなかった。
一方エペソではアレキサンドリア出身の、教養があり学識があり雄弁なアポロがキリストを宣べ伝えていたが、彼の語る福音には「キリストの名によるバプテスマ」という部分が欠落していたのを聞いて、プリスキラとアキラは彼により正しい福音を教える。アポロはパウロが伝道したギリシャに渡る思いを抱き、それを知った兄弟たちがアポロを励まし、推薦状を書いた。それでアポロはコリント教会の指導者として用いられ、多くの信者を励ました。
互いに認め合い、励まし合い、助け合い、支え合っていくことで、私たちは「あなたがたは互いに愛し合いなさい」というキリストの教えを守ることができ、そのことによって神の国が築かれていく。
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(コリント人への手紙第二 4章 7節)
(創世記24章より)
アブラハムに息子イサクの嫁探しを託されたしもべは、パダン・アラムの井戸のところで出会ったよく気の利く行動的な女性に素性を尋ね、彼女がアブラハムの親類であることがわかると、そこにひれ伏し神を崇めた。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。」彼は自分のことよりも、主人アブラハムの願いが叶えられたことを、アブラハムの主である神に感謝している。人類の代表としてアブラハムが神から受けた祝福が後世に紡がれていくために、この名もないしもべは大きく用いられたのである。私たちは主に造られた土の器であり、傷があり欠けだらけのものであるかもしれないが、それさえも神は最善にして用いてくださる。私たちはキリストのしもべとして、祝福を人に届ける器、恵みを取り次ぐ器として用いていただけるように祈っていきたい。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
(使徒の働き 4章 12節)
(ガラテヤ人への手紙1章6-12節より)
パウロがこの手紙を書いたのは、「私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに」(6)と、多くの信者が偽りの福音に騙されてキリストから離れていく状況を憂慮してのことであった。キリストの預言のとおり、現代まで多くの「偽キリスト」「偽預言者」が現れて様々な社会問題を引き起こしてきた。キリスト教を騙っていたとしても、その中身は聖書を否定しイエス・キリストを神と認めないもので、サタンが福音をうまくすり替えて私たちが本当のいのちの道からはずれるように、実に心地の良い言葉を使って誘ってくる偽りの教えなのである。
しかしパウロは「私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」(12)と、キリストの十字架の贖いにこそ、私たち罪の赦しと救いがあり、この福音にこそ永遠のいのちの道があると説く。このイエス・キリストから目を離さないで歩んでいこう。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
(伝道者の書 3章 11節)
(エステル記より)
自分にひれ伏さないユダヤ人のモルデカイに腹を立てたハマンの画策により、クセルクセス王の名によってすべての州のユダヤ民族の大虐殺の勅令が出された。
ユダヤ人が大きな悲嘆に打ちひしがれるなか、モルデカイはクセルクセス王の后となっていた養女のエステルに、王に勅令の撤回を求めるように要請する。エステルは謁見に失敗すれば死刑になることを恐れ躊躇するが、モルデカイはなおも「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない」(エステル4:14)とエステルに強く迫る。三日三晩、断食し祈ったエステルの答えは、「私は、死ななければならないのでしたら死にます」(16)というものだった。
キリストも十字架にかかる直前に「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と祈るほどに父なる神から呪いを受けることを躊躇したが、「わたしの時」と呼んでいた十字架での人類の贖いを全うしてくださった。
私たちにも神は「時」を備えていてくださり、自分が今ここに存在していることを、私たちは神の摂理のなかでとらえることができる。その「時」に、神にこの身をおささげするならば、神は栄光を現してくださる。
一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。
私のいのちの日の限り主の家に住むことを。
(詩篇 27篇4節)
ダビデにとっての「ただひとつの願い」、それは、「いのちの日の限り主の家に住むこと」であると彼は歌っている。「主の家」とは、主がご支配なさり、主の臨在が顕されているところ。私たちがこの世に生きている存在している所、また存在そのものに主が共にいてくださることを認めるならば、そこが御国となり、主の家となる。主の家は、私たちはいつでも主の麗しい御顔を仰ぐことができる場所であり、どんな霊的な危険からも守られる完全な避難所である。そしてそこは、キリストが「あなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネの福音書 14章 2節)と言われ、私たちの罪を贖うために自らいのちを捨て、備えてくださった永遠の住まいなのである。キリストは「わたしのもとに来なさい」と、そのまことの憩いと癒やしの主の家に招いてくださっている。そこが、私たちが帰るべき家なのだ。
わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ──神である主のことば──。そして、あなたはわたしのものとなった。
(エゼキエル書 16章 8節)
(ヨハネの福音書15章18-21節)
イエス様は、この世にあって主に従う者は憎まれ迫害を受けることを語る。しかし、「わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです」(19)ということばの通り、憎まれ迫害を受けるのは、主が選び主のものとなったという証拠だといえる。ここでいう「世」とは、サタンに支配されている人々の世界。サタンは私たちを神から引き離そうと欺き、苦しめる。しかし神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書 43章 4節)、「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」(イザヤ書 43章 1節)と、私たちは神のものであることをはっきりと宣言なさっている。私たちは、この神のことばを信じて歩むのだ。
苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
(ローマ人への手紙 5章 3〜4節’)
(使徒の働き18章 12-18節より)
ユダヤ人は不当にパウロを法廷に訴えようとするが、地方総督ガリオは、ユダヤ人同士の宗教的な論争は取り扱わないと門前払いをする。政教分離の立場から無関心を表明した形だが、保身のためにあえて宗教と関わろうとしない姿勢が見え隠れする。
神がいのちを捨ててまで人間に対する愛を明らかにされた福音の前に、私たち人間が無関心・無関係という立場を取るならば、それは何と悲劇的なことであろうか。この世での立場を守ろうと、あるいは誤解や偏見の目で見られまいとして福音を無視するならば、一番大事ないのちを失うことになるからである。パウロは「苦難さえも喜んでいます」と告白する。彼は、「信仰によって、…神の栄光にあずかる望み」(ローマ人への手紙 5章 2節)を常に見据えて、キリストの苦しみを共有できることを喜びとしていたのである。
神の福音の前に、私たちはどう応答するべきだろうか。
私たちはあなたの民 あなたの牧場の羊です。
私たちはとこしえまでもあなたに感謝し
代々限りなくあなたの誉れを語り告げます。(詩篇 79篇 13節)
(創世記24章より)
アブラハムに、息子イサクのための嫁探しを託されたしもべは、ナホルの町までやってきた。そこで彼は、やみくもに探し歩くのではなく、井戸のところで主に祈る。夕暮れ時に水を汲みにやってくる女たちの中に、飲水を乞うたときにらくだにも水を飲ませようとする者がいたら、それが主が備えておられるイサクの嫁であるということのしるしであるようにと、主に願ったのである。果たして、アブラハムの親類の乙女リベカがやってきて、期待以上のすばらしい愛と気遣いと行動力を見せる。しもべは、「主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた」(21)。彼は、リベカとの出会いが、主の導き・主のみわざであるか、思い巡らしていたのである。
私たちの人生という旅の成功は、自分の思い描く野心のとおりになるということではなく主が導き、主が示してくださること、主のみこころろがなるということ。このしもべが全人類に神の祝福が受け継がれていくために祈ったように、私たちは、主に造られた者が代々限りなく主の誉れを語り告げるように祈る者でありたい。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
(ガラテヤ人への手紙 1章3節)
ガラテヤ人への手紙は、ガラテヤ人の諸教会において「他の福音」に移っていく者が多いことをパウロが憂慮して書いたものである。パウロはイエス様の弟子として寝食を共にしなかったばかりか、クリスチャンの迫害に萌えていた過去があり、その言葉の権威を疑う者がいたが、手紙の冒頭でまず、「イエス・キリストと……父なる神によって、使徒とされた」と自らが神に選ばれたキリストの使徒であり、この手紙は神からのメッセージであることを明言する。そして初めに彼らのために「恵みと平安」を祈る。真の福音は値なき者に恵みとして与えられる神との平和であり、たましいの平安なのである。私たちがこの福音に生きるために、神が熱いメッセージを語っておられる。
主は私の光私の救い。だれを私は恐れよう。(詩篇27:1)
私たち人間の目はこの世のものしか見えず、視野には限りがあり、人生の道を見渡すことはできない。それで「人生は真っ暗闇」だとも言われる。しかしその人生の光として私たちを正しく導くお方が神、主であるとダビデは告白している。全能の神が、霊的に盲目である私たちの手を引き、共に歩んでくださり、あらゆる危険から守ってくださるのである。そして、「崩れ落ちたのは私に逆らう者私の敵であった」とあるように、ふたたびキリストがこの世に来られる時に、私たちを何とかして神から引き離そうとするサタンの息の根は完全に止められる。
主にあって、私たちはいちばん大切ないのちが守られる。だから私たちは恐れることはない。ただお一人本当に恐れるべきお方は主なのである。
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。(ヨハネの福音書 15章 16節)
キリストは、弟子たちに語った告別説教において、「あなたがたをしもべとは呼びません。…友と呼びました」(15)と、私たちは神のしもべ以上のものであり、親友として神からそのお心や考えをすべて教えていただける存在であることを語る。そして神の主権によって神は私たちを、実を結び、その実が残るようになるために、選び、任命された。キリストがすべての人の友となったように、私たちもすべての人の友となって人を愛し、神の愛を実践するものとしてこの世に遣わされていく。私たちは神の愛の使徒として任命されたのである。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネの福音書 15章13節)
新しい戒めを与えると語るイエス様の口から出たのは、「あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」ということばであった。律法・戒律と呼ばれる規定を守ることで戒めを守っていると思い込んでいた人々にとってこれは、ある意味驚きであったかもしれない。「わたしがあなたがたを愛したように」というのは、神を否定し神に逆らう人間のためにいのちを捨てたキリストの姿、つまり、敵対する者のためにいのちを投げ出すほどに愛するということ。私たち人間にはとうていできるはずがない。しかし、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」(ヨハネの福音書 15章 4節)というキリストのことばに私たちは希望を見出す。私たち人間を友と呼び、その友のためにいのちを捨てたキリスト。キリストを信じる者にはその霊がやどり、私たちの内からキリストの愛が溢れ出していく。キリストはいつも私たちのうちにともにいてくださるまことの友なのだ。
恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
(使徒の働き18章9節)
(使徒の働き18章より)
マケドニアでの宣教に対する迫害が激しく、パウロは一行より先にギリシャまで来ていた。コリントでは天幕作りで生計を立てながら宣教をしていたパウロだが、そこに心強い同労者であるシラスとテモテが合流し、みことばを語ることに専念し始める。
心を頑なにしているユダヤ人たちは、みことばを拒絶しパウロをののしる。それまでの迫害で、「弱く、恐れおののいていました。」(コリント人への手紙第一 2章 3節)と告白しているパウロだが、神は「恐れないで、語り続けなさい。…この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」(9,10)と励ましのことばをかける。そこで彼はコリントに一年半腰を据えて宣教に励み、コリント教会が確立する。
神はご自身がお造りになったすべての人を惜しまないではおられない。その思いを持って私たちはみことばを語る者とされたい。「宣教は、…御霊と御力の現れによるもの」(コリント人への手紙第一 2章4節)なのである。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
(マタイの福音書 6章 10節)
(創世記24章より)
アブラハムは年老いて、息子イサクの伴侶を探すことをしもべに託した。その条件は、まず、今住んでいる異教の地カナンからではなく、親族の中から選ぶということ。まことの神を信じて歩んでいる一族の信仰を純粋に保つためにはそこは妥協できない点であった。さらに、親族にふさわしいと思える娘がいたとしても、カナンの地に来ようとしなければ、その話はなかったことにすること。それは、主が子孫にこの地を与えることを誓われたからだとアブラハムは語る。
アブラハムの信仰を受け継いでいる私たちは、霊的な純粋さを損ねることがないように気をつけながら、主のみこころがなることを第一に求めていく者、信仰にあって霊的な子孫を増やす者でありたい。
すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。
(コリント人への手紙第一 16:20)
(コリント人への手紙第一 16章より)
自分が開拓したコリント教会が、派閥争いをしたり自分の賜物を誇ったりと分裂していることを聞いたパウロは、彼らを叱責し諭すためにこの手紙を書いた。しかし最後のあいさつの部分では、温かい励ましのことばを彼らに贈っている。
「アジアの諸教会がよろしくと言っています」(19)「すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています」(20)と、キリストのからだとして繋がっているすべての教会の兄弟姉妹が、心配し、応援し、励ましていることを、目が弱く執筆は誰かに口述筆記させることが多かったパウロがここでは自分の手で筆を握り、強い気持ちで書いている。そこには、どんな人をも決して見放さず見捨てないキリストの愛が込められているはずである。
私たちは、どんなに弱く欠けがある者であっても、主にあって励ましに包まれていることを感謝しつつ、霊的な大人として成長していくものでありたい。
新しい歌を主に歌え。全地よ主に歌え。
主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと御救いの良い知らせを告げよ。
(詩篇 96篇 1〜2節)
(詩篇26篇より)
ダビデは、「どうか私のたましいを罪人どもとともに私のいのちを人の血を流す者どもとともに取り去らないでください」(9)と、神に対して切に訴えている。すべての人は神の前に汚れた罪人であり、さばかれて当然のものであるが、ダビデはなおも神の憐れみにすがろうとする。「私を贖い出してください。あわれんでください」(11)という願いは、神が憐れみにより贖いのわざをなしてくださるという確信であり、また主の救いのみわざの予言のことばとなっているとも言える。主の救いを確信したダビデは、「私の足は平らな所に立っています。数々の集いで私は主をほめたたえます」と、主に頼る者の人生は揺るがされないことを感謝する。主に贖われた者は、新しい歌、つまり新しいいのちに生まれ変わった者として、神を賛美する人生を歩む。これが福音の恵みなのである。
わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。(ヨハネの福音書 15章4節)
(ヨハネの福音書15章より)
神は、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」(ヨハネの福音書 15章7節)と、神に願い求めることを私たちに促す。願いが叶えられるためには、私たち人間には何の努力も勲も必要ない。ここに言われているのは「キリストにとどまる」ということだけ。
神を裏切り、汚れ、罪人となった人類は神とつながることができなくなってしまった。そこで神はキリストに、あの十字架において人類のすべての罪を負わせ、人の罪をあがない、救いの道を用意された。この神から与えられる正しさ、「神の義」を受け取るだけで、人は神の前に正しいものとされる。キリストにとどまるならば、本当に求めるべきものを悟ることができ、みこころに沿った祈りは何でも聞かれる。
キリストの愛にとどまること、それは、私たちが「喜びで満ちあふれるようになるため」(11節)の戒めなのである。
私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
(コリント人への手紙第一 3章 9節)
(使徒の働き 18章より)
第二次宣教旅行でアテネからコリントに移ってきたパウロは、そこでアキラとプリスキラ夫妻に出会う。ユダヤ人に対する迫害でローマから流されてきたこの二人はキリストに対する篤い信仰があり、コリントでの家を開放して宣教活動をしていた。そこにパウロを招き入れることで、コリント教会が確立していくこととなる。天幕づくりを生業をしていたということにおいてもパウロと同業であり、その仕事で生計を立てながら一年半宣教活動に励み、その後もパウロの宣教旅行に同行することとなる。
この夫婦がパウロの同労者となって大きな働きをしたことは、パウロの諸教会への手紙の中で度々この二人の名を記していることでよくわかる。私たちは主にある同労者として、収穫を待ち望む農夫のようにキリストの来臨を待ち望む者、そして、キリストを土台として朽ちないみことばによって教会を建てあげる者とされていきたい。
柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。
(ペテロの手紙第一3章4節)
(創世記23章より)
創世記23章では、「サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった」と、アブラハムの妻サラが死去したことが記されている。アブラハム「悼み悲しみ、泣いた」と記されているのはこの箇所だけであり、彼がどんなにサラを愛していたかがわかる。
人類の代表として神様の祝福の約束を受け取ったアブラハムに生涯連れ添ったサラ。自身にも夫にもそれぞれ弱さがあり失敗を繰り返しながらも、神様の約束が成就するために一心同体の夫婦として神に仕え、神に用いられた。サラなしでは神の約束は成就しなかった。のちにペテロはサラを「神に望みを置いた敬虔な女」として記している。そのサラの埋葬のためにアブラハムは必死に土地を得ようとする。それは、神の愛と哀れみによる祝福を記念するためであった。
私たちが信仰によって内面から美しく麗しく生き、神が愛と哀れみのゆえに祝福してくださることをあかしできるとしたら、それこそが最高の生涯ではないだろうか。
私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
(コリント人への手紙第一 3章 9節)
(コリント人への手紙16章より)
コリント人への手紙の締めくくりとしてパウロは、テモテが訪問した際には彼を快く受け入れるようにと訴え、またアポロについてもいずれ訪れるであろうことを伝える。
パウロは、第二次宣教旅行の途中で出会った敬虔な信者であったテモテという若者を同行させ、その後、彼はパウロの片腕とも言えるほどにパウロの良き同労者となった。また信者の間では「パウロ派」「アポロ派」と分裂し対立していたが、パウロはコリント教会を指導したアポロを、自分とは違う働き人として認めていた。内気で気弱な性格であったテモテに反して、アポロは雄弁であったが、しかしどちらもパウロの同労者として大きく用いられた。パウロは神の働き人を尊ぶようにと教えている。
教会は、みことばに養われて多くの実を結び、キリストに土台を置くときに倒れることなく成長していく。
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙 12章 1節)
(コリント人への手紙第一16章より)
パウロはコリント教会に宛てた手紙で献金について「ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい」と言及する。神を信じる者は、神のからだである教会の営みのために献げ物をささげるが、それは神への愛をあらわすものであって、決して教会が信徒を苦しめるものとなってはならない。コリント教会の分裂分派の問題の根源は愛の欠如であるとして、愛の章と呼ばれる13章では愛の重要性が強く説かれている。「わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます」(コリント人への手紙第二 9章 6節)とあるように、神は私たち人間に、神と愛の関係を築くように、その愛の喜びに生きるようにと招いてくださっている。キリストはいのちを献げて私たち人間への愛をあらわしてくださった。その愛にどう応えられるだろうか。私たちの存在そのものを神に献げ、愛の喜びの中に歩んでいきたい。
主よ私は愛します。あなたの住まいのある所あなたの栄光のとどまる所を。(詩篇26:8)
(詩篇26より)
このダビデの詩は「主よ私を弁護してください」で始まる。主は、私たちを罪に定めようとする霊的な存在である悪魔の訴えから私たちを弁護してくださるお方。人は皆やがて神の前に立ち、さばきを受けるが、地上で犯したすべての罪状書きが読まれ、悪魔は私たちを責め立てる。しかしキリストが弁護人として立ち、私たちのすべての罪を自ら十字架の血によって贖ったのだから、被告人は無罪であると主張する。裁判官である神はキリストの両手両足の釘の跡を確認すると、人間に対して「無罪」を言い渡すのである。
神は愛のゆえにいのちを捨ててくださった。ここに愛がある。この愛を知った者は、その愛に応えようとする。主の臨在を喜び、主のみわざを歌い継ぐものとなっていく。そして神は私たちをきよい神の子という立場にふさわしい者へときよめてくださる。
主よ。あなたを愛します。
神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。(使徒の働き 17章30節)
(使徒の働き 17章より)
パウロはアレオパゴスでアテネの人々に向けて説教をする。人間が作った偶像を神とするのではなく、人間を造りいのちを与えたお方こそがまことの神であり、私たちのまことの父であることを語る。パウロの話を聞いて、ある者はあざ笑い、ある者は「またいつか聞こう」と決断を後回しにし、ある者はパウロに付き従い信仰に入った。このように人々の反応を分けたのは「死者の復活」の話だったが、まさにそれこそが福音の真髄といえる。神を離れて死んだものとなった人間にキリストの贖いによって再びいのちを与える神のみわざ。死んでいた自分の存在・営み・人生が、キリストにあってよみがえることを信じること、それがキリストを信じるということであり、救われるということ。この世の人生は永遠のいのちのための準備の時。今が決断の時なのだ。
主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。"
(イザヤ書 55章 6節)
(使徒の働き17章)
パウロの話に興味を持ったアテネの人々によって、パウロはアレオパゴスで会衆に話す機会が与えられた。
町中が偶像で溢れているのを見て憤ったパウロだが、それを頭ごなしに否定するのではなく、まず、「あらゆる点で宗教心にあつい方々だ」と彼らに理解を示す。そして「知られていない神」が祀られていることに触れて、人間が本当に知るべきお方は、まことの神であると話す。そして人間に作られた神でなく人間を造った神こそが本当の神であると説く。
「知れ。主こそ神」(詩篇 100篇 3節)とあるように、神に造られた人間が何よりも求めなければならないのは、まことの神。そして神を深く知ることこそが、人生の喜びなのである。
わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。(イザヤ書 45章 5節)
(使徒の働き17章より)
アテネでシラスとテモテを待っていたパウロは、「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた」(16)。著名な哲学者を輩出したアテネは、多神教の町でもあった。宣教には、相手を理解するということが必要であると感じたのか、パウロは彼らと対話をしていく。毎日町中で哲学の議論を交わしていたアテネの人は、それほどに真理を追い求めていたともいえる。パウロの心の憤りは、ただ一人崇められるべきお方、まことの神以外のものが神とされ拝まれていることへの怒りであり、またこれほどまでに真理を求めながら、まことの真理であるキリストを見出すことのできない彼らに対してのもどかしさややるせなさが入り混じったものであり、また、まことの神を知ってほしいという、キリストの霊の熱い思いがそこにはあったことだろう。アテネ同様、偶像で満ちた日本にいる私たちは、どうあるべきだろうか。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(コリント人への手紙第二 3章 18節)
(テサロニケ人への手紙 1章より)
厳しい迫害に遭っていたテサロニケ教会に向けての手紙で、パウロは、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました」と語る。聖霊が私たちに与えてくださる喜びは、状況に左右されることのないまことの喜びである。主とともにいることのできることこそが主を信じる者の最高の喜びであるともいえる。また聖霊は、私たちを主に倣うものとして造り変えてくださる。それは、「あなたがたは……すべての信者の模範になったのです」(7)とあるように、私たちがまっすぐに主を見上げ、主を模範として主に倣って生きるときに、今度は私たちが模範となっていく。人々が私たちの主にある生きる姿を見て、そこにまことの神の栄光を見るとするならば、それは何とありがたいことだろうか。
私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。(テサロニケ人への手紙第一1章5節)
パウロは、第二次宣教旅行において開拓したテサロニケ教会を励ます手紙の冒頭で、「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています」と書いている。この感謝は、激しい迫害にあっても彼らの信仰が守られていることに加えて、彼らが「神に選ばれていること」(4)、すなわち彼らを通して神の栄光が現されていることのゆえであるといえる。
宣教はことばをもってなされていくが、パウロは、福音が力と聖霊と強い確信を伴って届いたと語る。御霊の力によって初めて人の心が開かれ主を信じる信仰が与えられる。そして御霊の力によって、神との愛の絆がさらに強くされていく。私たちは御霊によって福音に生きることができるのである。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書 3章 16節)
(創世記22章より)
待望の息子イサクを全焼のいけにえとして献げることを神に命じられたアブラハムは、刃物を取り息子をほふろうとしたときに、主の使いが神のことばを伝える。「その子に手を下してはならない。あなたが神を恐れていることがよく分かった。」(12)「あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす」( 16〜17)と、神に対するアブラハムの愛に応えるようにして、祝福の約束が語られる。
そして神こそが、自分のひとり子キリストを惜しまずに与えるほどに私たち人間を愛してくださった。神に愛され神を愛す、神との愛の関係を豊かに育むことが、私たち人間の本来の営みなのである。
たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。
(イザヤ書 49章 15節)
イザヤ書には、「わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)など、直接的な表現で、人間に対する神様の愛のことばが記されている。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか」(イザヤ書 49章 15)と、ここでは、人間の母親が子を愛する愛に例えてご自身の愛が語られる。そして「たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」(イザヤ書 49章 15)と、神の愛は人間の どんな愛よりももっと大きく完全な愛であることが語られる。
「わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ書 49章 16節)ということばは、神はかたときも私たち一人一人を忘れることがないことを表現している。人類を愛し、人類を罪から贖うために自ら十字架にかかり、神の呪いをさばきを身代わりに受けてくださったキリスト。キリストが今、その傷のある手の平を見ながら私たちを覚え、その手を合わせて私たちのために祈ってくださっていることは、何と感謝なことであろうか。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。
(ヨハネの福音書15:5)
イエス様は十字架にかかる時が迫っているときに、弟子たちにご自身をぶどうの樹に例えて、天の御国の営みについて話された。「枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができない」ことを例にあげて、「わたしにとどまりなさい」と命じる。
罪人である人間は、キリストの贖いのわざを信じることできよい者とされ、神と交わることができる。 いのちの主であるキリストにつながり、とどまることではじめて、私たちは永遠のいのちをいただくことができ、多くの御霊の実を結ぶことができ、キリストの香りを放つ者とされる。
私たちが多くの実を結ぶことによって御国が豊かに建てあげられていく。この御国建設の恵みにあずからせていただけるとはなんと感謝なことであろうか。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
(ルカの福音書24章32節)
イエス様が処刑され墓に葬られたことで意気消沈し、また自らにも危害が及ぶことを恐れた弟子たちの二人が、かつての生活の拠点であったであろうエマオに向かっていた。そこに復活の主が現れ、二人とことばを交わす。霊的な目が塞がれていた二人には主だとは気づかずに、主のわざやエルサレムでの出来事を話すが、それはこの世の現象だけで、神の愛による救いのみわざという視点はそこにはなかった。そしてイエス様がかつて弟子たちに語ったことばと聖書全体からキリストについての預言を語り聞かせると、もっとその話を聞きたくなった二人はイエス様と一緒に泊まることにする。夕食においてイエス様がパンを裂いて二人に与えたその時、二人の霊の目が開かれ、それがイエス様であることに気づいた。
神のことばを聴き、神との交わりをとおして、私たちは霊の目が開かれ、信仰が燃やされていく。みことばに聴き、祈ることを欠かしてはならない。
イエスは人々に向かって話し始められた。
「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
ルカの福音書 4章 21節
(ルカの福音書24章より)
イエス様が捕らえられ処刑されてから3日目のこと、二人の弟子が、エルサレムからエマオへと向かっていた。悲しみ、意気消沈し、また弟子である自分にも危害が及ぶのではと恐れる彼らは、もともと生活していた場所に戻っていくところであったかもしれない。
そこへ、「イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた」(15)。「しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった」(16)。そんな二人にイエス様は語りかけて、3人の語らいが始まる。
私たち人間は、悲しみと絶望に心がふさがれて、見えるべきものが見えなくなったり、確かにおられる神を見失ってしまうことがあるが、それでも神の方から近づいてくださり、共に歩んでくださり、語りかけてくださる。私たちは聖書の言葉を読み、祈ることを通して、神と語らうことができる。そして、真実のみことばを思い起こさせてくださる。神の恵みとあわれみによって私たちは、神のことばの真実に生かされていくのである。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。
(ヨハネの福音書 20章 27節)
(ルカの福音書24章より)
イエス様を慕い従っていた女性たちは、安息日が明けた日の朝早くイエスが葬られた墓に行くと、墓は空っぽで、そこに天使たちが現れイエス様がよみがえったことを語った。彼女たちは急いで戻り、意気消沈して引きこもっていた11人の弟子たちにこのことを伝えるが、彼らは彼女たちの言うことを信用しようとない。しかしペテロは立ち上がり、墓まで走って行き、そこで主の驚くべきみわざを目の当たりにする。かつては3度も主を裏切ったこと悔やみ、今度こそ主を信じてみたいという強い気持ちがあったのであろう。
かなり経ってからのこと、迫害により投獄されペテロが天使に助けられて戻ってきたことを知らせた女性の言葉を、ここでも他の弟子たちは信じようとしなかった。現代よりも遥かに女性の立場が低く見られていた当時、しかしその女性たちが神に用いられて、主のみわざが伝えられたのある。
「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」(ローマ人への手紙 10章 15節)。主は私たちを、復活の主の福音を伝えるものとして用いてくださる。
ここにはおられません。よみがえられたのです。
(ルカの福音書 24章6節)
(ルカの福音書24章より)
イエス様が捕らえられた時、弟子たちは皆逃げてしまったが、イエス様を慕う女性たちは、イエス様が息を引き取り、埋葬されるまでを見届け、さらに気丈にも安息日が開けた日の朝早く、香料をもって墓に出かけた。そこに天使たちが現れ、女性たちに声をかける。「ここにはおられません。よみがえられたのです」(6)。それまでこの世の身体を持っていたイエス様を慕い従ってきた彼女たちが、これからはよみがえりの主を見上げていくという、新しい信仰のステージが開かれていく。そして「彼女たちはイエスのことばを思い出した」(8)。
私たちの信仰の土台はいつも神の言葉。神に造られた者として、この聖書の言葉に真正面から対峙して行く時、私たちは新しいいいのちに生きるということを学び、霊的に成長していくことができる。
正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。
(ペテロの手紙第一 3章 18節)
イエス様のうちには死罪に当たるような罪はないと認めながらもピラトとヘロデは、群衆の声に負けて彼らの要求通りに、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていたバラバを釈放し、その結果イエス様が最も重いといわれる十字架刑に処せられることとなった。
正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたという、なんとも理不尽な出来事。しかしそれは、きよい神のひとり子が罪に汚れた人類を贖うために、身代わりに神から呪われ刑罰を受けるという、究極の神の愛があらわされた形であり、命拾いした極悪人バラバは、ただ一方的な神からの恵みによって永遠のいのちをいただく私たち人間をあらわしている。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ人への手紙 5章 8節)とあるように、ここに神の愛がある。
計り知れない神の愛を思いながら、受難週を過ごしていきたい。
主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。"
(イザヤ書 55章 6節)
イエス様はユダヤ人たちに捕らえられて総督ピラトのところに連れてこられ、民を惑わし自分が王だと言っている者だと訴えられる。ピラトが「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねると、イエスは様は「あなたがそう言っています」と答え、自分を訴える言葉の中に真理が隠されていることを語る。
嫌疑不十分であると判断したピラトは、エルサレムに来ていたヘロデ王のところに身柄を送る。イエス様の噂を聞いていたヘロデは、大いに興味を持つが、尋ねても望むようには答えないイエス様に業を煮やし、またピラトのもとに送り返す。
ローマから地方総督として遣わされてきたピラトとユダヤを治める王ヘロデは、主導権を争う緊張関係にあったが、急にこの時から仲良くなった。イエス様を共通の敵、厄介者としたのである。ピラトもヘロデも、救い主、いのちの主を目の当たりにしながら、群衆の声に負けて、自分可愛さにイエス様を見殺しにしてしまう。しかし、彼らは一番尊い永遠のいのちを損なう結果となったのである。
キリストにあるいのちを得るのも捨てるのも、どのようにイエス様と関わっていくかにかかっている。
この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。
(使徒の働き17:11)
(使徒の働き17章より)
テサロニケでの宣教において多くの者がキリストを信じたが、ユダヤ人たちの迫害も激しくなった。みことばを伝えるという働きを絶やしてはならないと考えたクリスチャンの兄弟たちは、パウロとシラスをベレアに送り出し避難させた。しかし二人はそこに着くと、すぐにユダヤ人の会堂に入って、危険を顧みずに宣教を開始するが、宣教することが神からの使命だと受け止めていたこの二人にとって、それは当然のことであった。べレアの人々は、非常に熱心にみことばを受け入れ、毎日聖書を調べ、信仰を確かなものとしていった。「救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(エペソ人への手紙 6章 17節)とあるように、みことばこそ、サタンに打ち勝つ最高の武具である。聖書に基づいた信仰によって霊的に養われ、主の道をまっすぐに歩んでいきたい。
そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。(使徒のはたらき17章3節)
パウロとシラスの第二次宣教旅行において、二人はギリシャのテサロニケのユダヤ人の会堂で人々に“聖書に基づいて”語った。そして、聖書から話したことは、あの十字架で処刑され、よみがえったイエスこそがキリストであるということ。宣教の働きは、とこしえに変わらない神のことばである聖書からキリストを語ること。悪霊でさえ、神から目をそらせようとキリストのわざのような奇跡を行うことができる。聖書のことばを抜きにして不思議な体験を語ることは、サタンの罠にかかる危険をはらんでいる。
二人を家に招き入れていたヤソンは捕らえられてしまうなど、テサロニケでの迫害は激しくなる。しかし後にパウロがテサロニケ教会に「いつも喜んでいなさい」と手紙を書き送っている。私たちは聖書の中にいつも本当の希望を見出していくことができるのである。
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(創世記 22章14節)
長年待ってようやく息子を授かったアブラハムだが、その子イサクを全焼のいけにえとしてささげることを神に命じられ、指定された山へイサクを連れて行く。イサクに「全焼のいけにえはどこ?」と問われるも、アブラハムは「神が備えてくださる」と答えるのが精一杯だった。祭壇を作り、父がしようとしていることがわかってもイサクは抗おうとはせずに、黙って縛られ、祭壇の上に横たわる。いよいよ刃物を手に持ち、いざ息子を屠ろうとするアブラハムに神が呼びかけ、イサクを手にかけてはならないと命じる。「あなたは、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」と神を畏れるアブラハムの信仰と愛を称える。ふと見ると、一頭の雄羊がいることに気づいたアブラハムは、イサクの代わりにその羊を全焼のいけにえとして献げた。
この物語は、人間の罪のために神の子羊としてほふられたキリストの予型であり、「主の山には備えがある」ということばは、私たちの生活に必要なものは神が備えてくださるということ以上に、神が罪を犯した人間の代わりにひとり子キリストを犠牲にして人類に救いの道を備えてくださったという、驚くべき神の愛のみわざを表している。
福音が凝縮された「主の山には備えがある」ということばを胸に刻んで歩んでいきたい。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(ヨハネの手紙第一 4章 10節)
(創世記22章より)
子孫繁栄という主からの約束をいただいたアブラハムは、妻サラとの間に子どもが生まれることを何十年と待ち、老年になってもう不可能だと思われた時に、イサクが生まれた。その子を可愛がり育てていくアブラハムに、なんと「彼を全焼のささげ物として献げなさい」という命令が主から語られた。困惑し苦悩したに違いないアブラハムだが、翌朝、神が示された山までイサクを連れて出かけていく。自らが全焼のいけにえとなるために薪を背負って進むイサクの姿は、イエス・キリストが十字架を背負ってゴルゴタの丘に進まれた姿と重なる。ひとり子キリストを人間の犠牲にするために地上に送った神様の苦しみは、身を裂かれる以上のものであったに違いない。その苦しみもいとわないほどに神は私たちを愛し、救おうとされたのである。神のあまりに大きな愛を仰ぎ見ながら歩んでいこう。
しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(コリント人への手紙第一15章57節)
パウロはコリント人にあてた手紙で、「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」と綴る。派閥争いに明け暮れていた彼らに、キリストにある永遠のいのちを得た者が天の御国を相続できるという希望を語り、この世の朽ちるもののために小さな争いを続けることは何とつまらないことであるかと諭している。
この世では私たちはサタンとの霊的な戦いがあるが、キリストを着るならば、死にさえ打ち勝ったキリストとともに勝利者となることができる。この地上で私たちは、いつも永遠の天を想いながら、この朽ちないもののために労する者でありたい。
私に御顔を向け私をあわれんでください。私はひとり苦しんでいます。
(詩篇25篇16節)
一国の王であり、信仰の人として名を残したダビデではあったが、ここでは孤独な苦しみを主の前に告白している。国を治め民を導くという大きくのしかかる責任に押しつぶされそうになり一人苦悶するダビデは、そこから神を見上げた。
たとえ私たちが四方八方塞がれているようなときでも、天は開けている。そして神に祈ったダビデは、「神よイスラエルをそのすべての苦難から贖い出してください」(22)と、民のためにとりなしの祈りをささげる。孤独を感じていても神を見るならば、そこに神が愛されている一人ひとりを見ることができ、神をとおして人とつながり、私たちは人のためにとりなす者とされるのである。
弱りきったありのままで神を見上げるとき、主はその御顔を向けてくださる。
それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。
(ヨハネの福音書14章31節)
イエス様が弟子たちに地上で語る最後のメッセージを、「それが起こったとき、あなたがたが信じるため」であると語る。「それ」とは、キリストが復活し天に上げられることであると同時に、再臨の時のことでもあるといえる。
神の子キリストは人の罪を背負って、神に呪われさばかれ、神との断絶を余儀なくされた。そのキリストが再び父なる神のもとに戻ることは何とよろこばしいことであろうか。そしてキリストは私たちの場所を備えたら再び私たちを迎えに戻ってこられる。その時は、「そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見る」(ルカの福音書 21章 27節)とあるように、誰の目にも明らかにわかる形で主は再臨される。それまで決して偽キリストに騙されてはならない。
そして主は今日も「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」と私たちを奮い立たせてくださる。主が私たちに遺してくださった「力と愛と慎みの霊」である御霊によって、私たちは大胆にこの世に歩み出ていくことができるのだ。
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
(ヨハネの福音書14章27節)
キリストは、この世を去っていかれようという前に弟子たちに、「わたしはあなたがたに平安を残します」と語った。キリストが「もうひとりの助け主」である御霊、聖霊を送ることによって私たちに与えようとしていたのは平安であった。平安こそが、私たちが生きていく上で最も大事なものといえる。そして、神が下さる平安は、この世のものとは違うものである。この世が謳う平安は、実は私たちの心身の健康を蝕み、財産や命までも奪い取っていくものが少なくない。キリストの名を騙る団体にそのような被害に遭っている人がいることにも心痛む思いである。
キリストの御霊が与える本当の平安の中にとどまり、私たちのいのちが守られるようにと、祈る。
だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネの福音書 14章 23節)
(ヨハネの福音書14章より)
「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」とキリストは言う。キリストは新しい戒めとして、「互いに愛し合いなさい」と語った。愛し合うこと、それは律法的なことではなく、神の愛にとどまること。それが神を愛し人を愛することであり、またそれは、神の愛を知り、その愛を信じるということである。
キリストが迎えに来るその時まで、私たちがその愛の中にとどまり続けることができるように、助け主、御霊なる神が私たちに与えられることが約束された。そして「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいる」という麗しい愛の関係の中に生かされることが約束されている。神は、私たちが神のうちにいることを望むほどに、私たちを愛しておられる。
この愛にとどまりつつ、私たちはキリストが再びこの世に来られる時を待ち望むのである。
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
(ヨハネの福音書14章12節)
(ヨハネの福音書14章より)
ピリポの「主よ、私たちに父を見せてください」という言葉に対して、イエス様は「わたしを見た人は、父を見たのです」と答えられた。目が悪い人がメガネをかけて周りのものが見えてくるのと同様に、聖書の知識が豊富でも信仰がなければ神を知ることはできない。私たちは、キリストを信じるならば、父なる神様がわかり、キリストをとおして、創造主であり贖い主であるまことの神を知ることができる。
さらにキリストは、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」と語る。これは私たち人間に奇跡を行う力が宿るということではなく、その後の「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」ということば通り、祈りによって主のわざがこの世になされることを、主は私たちに託しておられるのである。
キリストを信じ、祈る者として歩みたい。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネの福音書 14:6)
(ヨハネの福音書 14:1-7より)
イエス様が地上の生涯を終えようとしている時、弟子たちにこう語られた。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(1)。人類は罪を犯して神から離れたことから、まことのいのちを失い、死と滅びに向かうもの、不安と恐怖悲しみと憎しみを抱くものと憎むものとなった。しかし、キリストが自ら死んで贖いのわざを成し遂げられ、死んで倒れて、まさしく人々に踏まれる「道」、神へとの架け橋となってくださったのだ。キリストを信じるならば誰でも再び、神と交わることが許され、まことの平安を得ることができる。「必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」(イザヤ書 43章 19節)と約束された神は、どんなに荒れすさんだ人の人生にも、まことの道を設けられる。神に造られたものとして歩む正しい道、豊かないのちの道がここにある。