私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。(ガラテヤ人への手紙 5章5節)
(ガラテヤ人への手紙 5章2-6節より)
異邦人が救われるためには割礼を受けることが必要だと説く人々に対し、パウロはその教えを強く否定する。
割礼という肉体のしるしを救いの条件とするということは、肉の行いによって自らの義を達成するという意思表明であり、キリストのあがないのみわざを不必要とすること。しかし、人は自らの力で神の前に義となることなどはできない。パウロは「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」(ローマ人への手紙 3章 28節)と、人は、「肉」「行い」ではなく、「御霊」「信仰」によって義と認められると語る。必要なのは、肉の印ではなく御霊による証印なのである。
私たちが義とされる望みは「信仰により、御霊によって」(5)実現されることを心に刻み、キリストの愛と恵みから落ちないようにしたい。