神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙 1章 3節)
(創世記26章12~15節より)
イサクの生涯の総括として、創世記は「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。」と記している。この箇所のすぐ前には、ゲラルの地において、妻リベカを妹と偽り、自分の保身のために妻の貞操をないがしろにしたイサクの大きな罪が記されているが、そんな失敗が何事もなかったのように、神様はイサクを祝福している。
人は行いではなく神の贖いのわざによってのみ神の前に義とされる。神が贖い犠牲をもって人をきよいものとする救いのみわざを、自らが神へのいけにえとなるように導かれた経験を持つイサクは、よくわかっていたのではないだろうか。
キリストを信じることで私たちは神の祝福を受けることができ、与えられているものをささげるとき、神は何倍にも祝福して用いてくださるのである。私たちを祝福するための犠牲となるために2千年前にこの世に来てくださったキリストに感謝しつつアドベントの時を過ごしたい。