わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
(ヨハネの福音書 11章 25節)
第3次宣教旅行を終えてエルサレムへの帰途、パウロは一行とトロアスで落ち合った。彼らは「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」(7)。この時からキリストを信じる者が日曜日ごとに集まり、キリストを礼拝し、交わりをしていたことがわかる。「パンを裂く」というのは、形式的な聖餐式を行っていたというよりは、自分たちが集っているのは、キリストの贖いのゆえであることを覚え、確認するということであったろう。
パウロの話は夜遅くまで続いたが、窓のところに腰掛けて聞いていたユテコという青年は眠り込んで3階から落ちて死んでしまう。しかし、パウロは彼を抱きかかえ、「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。神様は彼に目を留めてあわれみ、彼は息を吹き返したのだった。礼拝に出席しても居眠りをしたり、みことばを聞いても意味がわからないこともある、しかし、それは確かに神とともに過ごしたかけがえのない時間であり、神の前に心も体も休めていること。それを神はとがめるだろうか。
神は道を踏み外し倒れた者を生き返らせることのできるお方である。私たちのたましいにキリストのいのちがあるならば、私たちはまたやりなおせる。また立ち上がれる。そして神との愛、兄弟姉妹との愛の交わりに生きることができる。この喜びと慰めのうちに、私たちは憩うことができる。