神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
(伝道者の書 3章 11節)
(エステル記より)
自分にひれ伏さないユダヤ人のモルデカイに腹を立てたハマンの画策により、クセルクセス王の名によってすべての州のユダヤ民族の大虐殺の勅令が出された。
ユダヤ人が大きな悲嘆に打ちひしがれるなか、モルデカイはクセルクセス王の后となっていた養女のエステルに、王に勅令の撤回を求めるように要請する。エステルは謁見に失敗すれば死刑になることを恐れ躊躇するが、モルデカイはなおも「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない」(エステル4:14)とエステルに強く迫る。三日三晩、断食し祈ったエステルの答えは、「私は、死ななければならないのでしたら死にます」(16)というものだった。
キリストも十字架にかかる直前に「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と祈るほどに父なる神から呪いを受けることを躊躇したが、「わたしの時」と呼んでいた十字架での人類の贖いを全うしてくださった。
私たちにも神は「時」を備えていてくださり、自分が今ここに存在していることを、私たちは神の摂理のなかでとらえることができる。その「時」に、神にこの身をおささげするならば、神は栄光を現してくださる。