苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
(ローマ人への手紙 5章 3〜4節’)
(使徒の働き18章 12-18節より)
ユダヤ人は不当にパウロを法廷に訴えようとするが、地方総督ガリオは、ユダヤ人同士の宗教的な論争は取り扱わないと門前払いをする。政教分離の立場から無関心を表明した形だが、保身のためにあえて宗教と関わろうとしない姿勢が見え隠れする。
神がいのちを捨ててまで人間に対する愛を明らかにされた福音の前に、私たち人間が無関心・無関係という立場を取るならば、それは何と悲劇的なことであろうか。この世での立場を守ろうと、あるいは誤解や偏見の目で見られまいとして福音を無視するならば、一番大事ないのちを失うことになるからである。パウロは「苦難さえも喜んでいます」と告白する。彼は、「信仰によって、…神の栄光にあずかる望み」(ローマ人への手紙 5章 2節)を常に見据えて、キリストの苦しみを共有できることを喜びとしていたのである。
神の福音の前に、私たちはどう応答するべきだろうか。