私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(ヨハネの手紙第一 4章 10節)
(創世記22章より)
子孫繁栄という主からの約束をいただいたアブラハムは、妻サラとの間に子どもが生まれることを何十年と待ち、老年になってもう不可能だと思われた時に、イサクが生まれた。その子を可愛がり育てていくアブラハムに、なんと「彼を全焼のささげ物として献げなさい」という命令が主から語られた。困惑し苦悩したに違いないアブラハムだが、翌朝、神が示された山までイサクを連れて出かけていく。自らが全焼のいけにえとなるために薪を背負って進むイサクの姿は、イエス・キリストが十字架を背負ってゴルゴタの丘に進まれた姿と重なる。ひとり子キリストを人間の犠牲にするために地上に送った神様の苦しみは、身を裂かれる以上のものであったに違いない。その苦しみもいとわないほどに神は私たちを愛し、救おうとされたのである。神のあまりに大きな愛を仰ぎ見ながら歩んでいこう。