そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
(マタイの福音書 16章 21節)
イエス様が語っていたこのことばのとおり、そして旧約聖書の預言通りに、イエス様は捉えられてから、ののしられて苦しみを受け殺され、三日目によみがえる。
捕らえられ十字架につけられたイエス様は、「他人は救ったが、自分は救えない」(マタイ27:42)というののしりのこのことばを受けるが、このことばこそが、まことの神の愛を表したことばだといえる。「十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう」と言われて、もちろん神の子イエス様はたやすくできる能力があった。しかしそれでは神が愛するすべての人を救えない。人類を罪から救うためには、ご自身を犠牲にしなければならないという、その使命のために、イエス様はご自分を救うことはおできにならなかったのだ。
私たちを救い生かすために、キリストはののしられても苦しめられても、それを甘んじて受けられた。今、この神が、私たちの味方なのだ。だから、私たちはいつも自分を励ましながら。神様をあがめつつ、歩んでいくことができる。