このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(Ⅰテサロニケ2:8)
パウロは第二次伝道旅行でテサロニケで宣教したとき、幾人かはみことばを受け入れたが、あるユダヤ人は暴動を起こして、パウロたちを受け入れていた家を襲った。ピリピにおいても捕らえられ鞭打たれ投獄されたパウロ一行だが、それでも彼らは宣教を続けている。教会が生まれるとき、そこには「産みの苦しみ」が伴う。
そして、ピリピ人の教会においては、パウロは自らの権威を振りかざすのではなく、「母がその子どもたちを養い育てるように」(7)信徒たちの信仰を育て上げた。パウロは、「私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたい」(8)と思うほど、彼らを愛していると記している。このパウロのうちに、私たちはキリストの愛を見ることができる。
私たちの救いのために、苦しみをも厭わず、いのちを投げ出し、霊的成長に必要なものをいつも与えてくださるキリスト。そしてその霊が今、主を信じる私たちのうちにも宿っている。キリストのからだである教会が生み出され、成長するために、一人ひとりが労苦を惜しまず献身的な奉仕をしているのを見る時に、感謝の念で溢れてくる。
人間の母親以上の完全な愛で私たちを愛してくださるキリスト。この愛を表す者として、歩ませていただこう。