私たちはキリストのために愚かな者です(Ⅰコリント4:10)
パウロは感情的を高ぶらせて、コリント教会の人々を痛烈に批判する。「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか」と、コリント教会の人々が高慢になっていることを指摘する。人間は神から頂いたものでないものは一つもなく、自分自身を誇ることなどはできない。パウロは「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:16)とも語っている。
パウロは自分たち使徒の召命について「神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました」(9)と振り返る。神に仕えるということは、イエス・キリストが人々から嘲られても、まるで「ほふり場に引かれて行く小羊のように」(イザヤ53:7)十字架に向かっていった姿の後に従い、キリストの謙卑に倣っていくこと。「 私たちはキリストのために愚かな者です」と、自分を含めた他の教会の指導者たちのは、キリストと同じく、この世では自分から愚か者と見なされる道を歩んでいることを説く。
パウロは「愛する私の子どもとして、さとすため」(14)に、厳しい口調で戒めているのだと記している。「主の懲らしめを軽んじてはならない」(ヘブル12:5)とあるように、私たちは、父なる神が語られる叱責のことばを受け止めていきたい。
私たちがキリストに似ていく者として成長していくことを神は期待し、見守っていてくださる。