きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 (ルカ2:11)
飼いたちが夜番をしているところに、主の栄光が周りを照らし天使が現れ「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た」と告げる。神は、神に造られたすべての人のための喜びの知らせを、まず、この名もなく、貧しく、人から蔑まされていた羊飼いたちに知らされた。ここに神のわざの不思議さがある。「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた」(Ⅰコリント1:26)のだ。御使いは「ダビデの町で」と、旧約聖書で預言されているとおりに、ダビデ王が生まれ育った町、ベツレヘムに救い主が生まれたことを伝える。神の約束のことばには、間違いがない。そして、その救い主は、なんと「布にくるまって飼い葉桶に寝ておられる」のだという。動物のよだれや糞尿にまみれた飼葉桶を新生児のベッドにしていたというのは、当時としてもよほど異常なことだったからこそ、特に医者であった著者は、3回も「飼い葉桶」と強調しているのか。それはまさに汚れ、悪臭は私たちの心に救い主が来たということを象徴している。そして、天使の軍勢たちの賛美が始まる。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、 御心にかなう人々にあるように。」 「平和」というのは、「平安」とも訳せることばで、ただ争いやいさかいがない、というような消極的なものというよりは、神によってもたらされるまことの平安、完成された、満たされた状態。人は、神との平和があるところに、人との平和が生まれ、平安がそこに生まれてくる。あまりの素晴らしい光景を見た大興奮の中、羊飼いたちは、急いでベツレヘムに行って飼い葉桶に寝ておられるみどりごを探し当てた。目の前に神の御子キリストを見た彼らは、恐らくことばもなかったのではないか。まさに、クリスマスは驚くばかりの出来事。私たちの人生の暗い夜を主の栄光で照らすクリスマスの出来事は、きょう、私たちに起こる。