光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネの福音書 1章 5節)
(ルカの福音書 2章8-18節より)
キリストがこの世に誕生したことを一番初めに知らされたのは、一介の羊飼いたちであった。突然天からの光に照らされた彼らは、天の軍勢が神を賛美している光景を目の当たりにする。
全世界のすべての者の救い主の誕生について、飼い葉桶に寝ておられる姿がそのしるしであると天使は告げる。神のひとり子が汚くて臭い場所に最も弱く小さい姿となって現れたのは、神のあり方を捨てて人に仕えるという驚くべきキリストの謙卑の姿であった。羊飼いたちは大急ぎでその幼子キリストを探し出し、礼拝をしたあとそれを人々に伝えた。人々はその驚くべき神のみわざを聞いて神を怖れた。
神は、この世的に優れた者よりも、神の御旨を畏む者を尊く用いてくださる。そこに神の栄光が現される。そしてキリストの光に照らされた者は、羊飼いたちのようにこの世にあって天の御国を垣間見て、その前味を味わう恵みにあずかる。新しい年も、主の栄光を仰ぎつつ日々を歩んで行きたい。
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
(ローマ人への手紙 1章 16節)
(ガラテヤ人への手紙3章11~14節より)
キリスト教の基本的な、そして重要な教義がまとめられているともいえる箇所。キリストを信じるだけでなく律法の行いを全うすることが必要であると説く誤った教えに揺り動かされている教会に、パウロははっきりと「義人は信仰によって生きる」と、人は信仰によってのみ神に義と認められることを強調する。
「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(13)とあるように、キリストの十字架は、信じる者を神ののろいから完全に贖うみわざである。
私たちは「信仰によって約束の御霊を受ける」(14)。御霊によって乙女マリアが救い主を胎に宿したように、御霊が私たちのうちに宿るとき、そこに神のみわざが現される。この約束を覚えて歩みたい。
神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙 1章 3節)
(創世記26章12~15節より)
イサクの生涯の総括として、創世記は「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。」と記している。この箇所のすぐ前には、ゲラルの地において、妻リベカを妹と偽り、自分の保身のために妻の貞操をないがしろにしたイサクの大きな罪が記されているが、そんな失敗が何事もなかったのように、神様はイサクを祝福している。
人は行いではなく神の贖いのわざによってのみ神の前に義とされる。神が贖い犠牲をもって人をきよいものとする救いのみわざを、自らが神へのいけにえとなるように導かれた経験を持つイサクは、よくわかっていたのではないだろうか。
キリストを信じることで私たちは神の祝福を受けることができ、与えられているものをささげるとき、神は何倍にも祝福して用いてくださるのである。私たちを祝福するための犠牲となるために2千年前にこの世に来てくださったキリストに感謝しつつアドベントの時を過ごしたい。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
(ヨハネの福音書 1章 14節)
(詩篇30篇10-12節より)
ダビデは、「聞いてください主よ。私をあわれんでください主よ。私の助けとなってください」(10)と神に悲痛な叫びを上げている。これは、神がその声に必ず答えてくださるお方であることを確信してのこと。そして直後に、「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました」(11)というのは、彼が何度も窮地に陥っているところを神によって助けられ守られたことを告白している。そして最後は、「私の神 主よ 私はとこしえまでもあなたに感謝します」と賛美で締めくくっている。
イスラエルがエジプトに囚われていたとき、バビロンに捕囚になっていたときも神がその御手で解放してくださったように、神は、待ち望む私たちの声に応えてくださり、私たちのところに来て苦しみから解放してくださる。私たちとともにいてくださり、みわざを現してくださる神を知る私たちは、この神をほめたたえずにはいられない。
またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハネの福音書 17章 22節)
イエス様は弟子たちに最後のメッセージを語った後、父なる神様に「彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです」(11)と祈っている。人間は神の形に似せて造られたが、アダムとエバの罪により、そのかたちをそこなってしまった。しかしキリストがその罪を贖ったことで、キリストを信じる者はふたたび神のかたちを取り戻し、一つとなってキリストのからだを作り上げていくことができる。そしてキリストのからだである教会は、一人ひとり違う個性や働きをお互いに認め尊重していくことで健全に成長していく。
「わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるため」(13)とも祈っているように、私たちは、神と人と愛の絆で結ばれて一つとなり、本当の喜びに満ちあふれて歩むことで神の栄光を表していくことができる。
あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。(使徒の働き20章28節)
(使徒の働き 20章より)
パウロはアジアの諸教会の代表たちを呼んで、最後のメッセージを語った。「私の顔を、あなたがたはだれも二度と見ることがないでしょう」(25)という言葉は、迫害ゆえに自分の生命はもう長くないことを悟っていたことを伺わせる。「私は、だれの血に対しても責任がありません」(26)と、神からの宣教の使命においてはすべてやるべきことをやりきったと語れることはなんと幸いなことだろうか。
そして、「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」(28)と、教会を個人から全体に至るまでケアをするようにと命じる。教会の健全な成長のためには、常に聖書から教えられていくことが必須となる。コリント教会やガラテヤ教会が問題を起こしたように、サタンは吼えたける獅子のように教会を狙っているので、(ペテロの手紙第一 5章 8節)、いつも霊的に「目を覚ましていなさい」(31)と注意を促している。
私たちは神に買い取られ、神のものとなった神の教会である。教会が霊的に健全に成長していくように気を配っていくこと、それがキリストのからだである教会を愛していくということなのである。
幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。(詩篇 32篇 1節)
(創世記26章6-11節より)
カナンの地が飢饉に襲われた時、イサクは家族を連れてゲラルに滞在していた。イサクは美しい妻を欲しがるその土地の男に自分は殺されてしまうのではないかと恐れ、妻を自分の妹だと偽るが、二人の様子を見た王に兄妹だと見破られてしまう。
アブラハムもかつて似たような状況のなかで自分の保身のために妻を妹だと偽り、妻を他の男に渡してしまうということが2度もあった。人間には同じ過ちを繰り返す弱さがあり、親から悪い部分も受け継いでしまうことがある。
アブラハムも、ダビデも、ペテロも神の前に失敗を繰り返したが、信仰のゆえに義と認められた者たちである。キリストの贖いのみわざは、どんな人のいかなる罪でもおおう。この神のほんとうの愛と赦しがあるからこそ、私たちは神の御前に喜び楽しみつつ生きていける。神に感謝しつつ歩もう。
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤ人への手紙 3章 11節)
(ガラテヤ人への手紙3章6〜11説より)
パウロは、「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあるとおりです」(6)と、律法を守り行うことでは人間は神に近づくことはできず、信仰によって初めて人は神に義とみとめらることをアブラハムを例に出して説く。行いによって神に近づけるという考えこそが人間の傲慢な姿であるといえる。アブラハムは人間的な弱さのゆえに何度も失敗を重ねたが、神がその御名において哀れみ救ってくださることを信じ、それが神の前に義と認められたのである。
そして「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」(8)とアブラハムに対して語られたことばのとおり、私たち日本人も信仰によってアブラハムの祝福を受け継ぐことが約束されている。
それはキリストの贖いのゆえである。ひとり子を犠牲にするという父なる神の苦しみを、息子イサクをささげた経験を持つアブラハムは身をもって知っていたであろう。そこまでして神は私たち人間を愛し、救いの道を備えてくださったのである。
アダムとエバから肉によって罪と死と滅びを受け継いだ人間だが、キリストを信じることによって永遠のいのちを受け継いでいくという神の約束。この祝福を感謝して受け取っていく者でありたい。
主よあなたはご恩寵のうちに私を私の山に堅く立たせてくださいました。
(詩篇30篇7節)
(詩篇30篇より)
ダビデは、神の顕現の場、神が臨在し神との交わりが許されている場を「私の山」と表現している。「主よあなたはご恩寵のうちに」というところをある英語の聖書では「You, Lord, were my friend」と訳されている。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネの福音書 15章 13節)と語ったキリストが十字架で死に人類の罪を贖ったことで、神が私たちの友となってくださったことが証明された。ダビデは「あなたが御顔を隠されると私はおじ惑いました」と歌うが、霊的な目が曇り神を仰ぐことが困難な時でさえ、神は御顔の輝きを私たちに向けてくださり、慰めと励ましを与えてくださる。
モーセが生涯を閉じる時にピスガの頂きから約束の地カナンを見たように、私たちもキリストにあっていつも神の臨在に触れ、神の御顔を拝し、天の御国を望み見ることができることは、何と幸いなことであろうか。
だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。(イザヤ書 43章 1節)
(ヨハネ17章6-10節より)
イエス様が十字架にかかる直前に、弟子たちのため、人類のためにとりなしの祈りをしている言葉から、渡した質は神様の恵みを味わい知ることができる。
イエス様は「彼らはあなたのもの」(6節)と祈るが、私たち人間は神によって造られ、神からの息によって生きるものとなり、神とともに永遠に生きるものであった。罪を犯して神から離れても神のひとり子キリストという尊い犠牲を払ってまで人類に救いの道を用意してくださった。私たちは神の所有物でありいっさいは神が備えたものなのである。
神を信じるものは、神に選ばれた者であり、神から出た者すなわち神の子どもの特権が与えられ、神の教えのことばによって神の似姿へと成長していく。「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神」(出エジプト記 20章 5節)とあるようにねたむほどに私たちを愛してやまない神様の愛のうちを、私たちは平安と喜びをもって歩むことができる。
私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き 20章24節)
パウロは、宣教旅行を終えて、エルサレム教会への帰途を急いでいた。しかしかつて自分が開拓した教会があるアジアを素通りすることはできずに、諸教会の代表を呼んで最後の説教を語り、宣教をわざを彼らに託している。
「私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます」(22)と表現しているが、パウロは、行く先々で迫害に遭い苦難があることが御霊によって示されていても、御霊に迫られるようにして神からの使命を遂行していくのだと語る。パウロは「神の恵みの福音を証しする任務」こそが「自分の走るべき道のり」であると確信していた。
私たちの「走るべき道のり」において、神が重荷を負ってくださり、神が背負って運んでくださり、神が力を与えてくださる。だから私たちは「走っても力衰えず、歩いても疲れない」(イザヤ書 40章 31節)のである。
御霊が私たちの心をノックするようにして、なすべき使命に気づかせてくださるとき、神のみこころがなるように、この器を差し出していきたい。
あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。(申命記 28章 2節)
(創世記 26章 1〜5節より)
カナンの地を激しい飢饉が襲った時、イサクはかつて父アブラハムがそうしたようにエジプトに移り住んで難を逃れようと家族を連れて出かけていく。しかしエジプトの手前まで来た時に神がイサクに現れ、エジプトへは行かずにここゲラルの地に寄留するように命じる。イサクはかつての経験に基づく目論見よりも神のことばに従った。父の敬虔な信仰を受け継いだイサクに、神はアブラハムに与えた子孫繁栄の祝福がイサクを通して成就することが語られる。
「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する」(3)という神のことばは何と恐れ多く身に余る約束であろうか。きよい神は汚れた人間とは交わることがおできにならない。そこには人類の罪を神のひとり子キリストにすべて負わせて身代わりに処罰し、神を信じる者を無罪放免とし、きよい者とする神のご計画があった。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」(4)という約束は、ひとりの子孫=イエス・キリストによって全人類が贖われることの約束であるとパウロは語っている(ガラテヤ人への手紙 3章 16節)。
私たちがアブラハム、イサクの信仰を受け継ぐこと、それは神の祝福を受け継ぐことなのである。
音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙 1章 17節)
(エペソ人への手紙 3章より)
自らが開拓した教会の人々が「別の福音」の教えにそそのかされてキリストを離れてしまっている事態を聞いたパウロは、彼らを諭すためにこの手紙を書いているが、この3章でたまらずに「ああ、愚かなガラテヤ人」と、嘆きのこもった叱責の言葉を記している。
「十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか(1)」と続けているように、初めの人間を騙して神にあるまことのいのちから引き離したサタンの働きは、現在まで強く続いている。聖書の真理から目をそらさせキリスト以外に救いがあるように思わせ、人間の努力によって救われるかのように説くサタンの手口は実に巧妙である。
キリストから離れたところでは永遠の死と滅びが待っている。そこに陥いるような愚か者にならないようにと、神は強い言葉で注意を促してくださっている。私たちはこの神の言葉に耳を塞いではならない。
私は平安のうちに言った。「私は決して揺るがされない」と。
(詩篇 30篇 6節)
ダビデは、「主にある敬虔な者たち」に「聖なる御名に感謝せよ」(4節)と呼びかける。神と深く交わり神様を体験的に知っている者、神様を恐れ畏み神に仕えている者は、神の愛の大きさ、恵みの深さを覚え、神に感謝せざるを得ない。
そして、「まことに御怒りは束の間いのちは恩寵のうちにある」(5節)と、神に背いた人間を尚も愛して、ひとり子を犠牲にしてまでも人類に救いの道を用意なさったみわざをほめたたえている。
そして、「私は決して揺るがされない」(6節)と、キリストに土台を置く者はまことの平安が与えられ、人生を歩むことができると、自らの体験を通して告白している。このダビデはこうも歌っている「主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません」(詩篇 16篇 8節)。
まことの平安の人生を歩んでいきたい。
あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
(イザヤ書 46章4節)
「白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。」(箴言 16章 31節)とあるように、私たちは一生において、どれだけ神を知り、神を恐れて歩んだかが、問われていく。神の前に正しく歩んだ者の人生を神はたたえてくださる。
イザヤは、「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれ」(イザヤ書 46章 3節)、「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた」(イザヤ書 49章 1節)と語っている。私たちはこの世に生を受ける前から、神様に見つめられ、名前を呼ばれ、神様の栄光のための器として召されている。そして、たとえ私たちが年老いて思うように神への奉仕ができなくなっても神は背負ってくださる。
「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す」イザヤ書 46章 4節とあるように、私たちの一生は生まれる前から神様に背負われ、運ばれていく。死からよみがえったキリストのその御力で私たちを救ってくださる。主に背負われ運ばれていくことで私たちは、神様の素晴らしさ、神様の栄光を現していくのだ。
永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネの福音書 17章3節)
(ヨハネの福音書17章1-5節より)
キリストは弟子たちへの告別説教を終えると目を天に上げて父なる神に祈り始める。まず「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。……子が永遠のいのちを与えるためです」と祈る。キリストは人に仕え、人のために死に、人にいのちを与えるための一切の権威が与えらている。だから人類の救いの道は、唯一キリストだけなのである。
そして「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」という言葉は、日々、神と交わり、神とともに歩み、神を深く深く知っていく営みこそが永遠のいのちの真髄なのである。この言葉は、人間の成功や自己実現のための手引書として聖書を利用しようとする誤った思考への戒めでもある。
「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」(ホセア書 6章 3節)とあるように、主を深く知っていくことで、キリストがいのちを捨ててまで私たちに与えてくださった永遠のいのちを豊かに生きていきたい。
涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。
(詩篇 126篇 5節)
(使徒の働き20章より)
パウロは第3次宣教旅行の帰途を急いでいたが、宣教開拓したエペソ教会のことを思うとアジアを素通りはできずに、ミレトスにエペソ人教会の指導者たちを呼び集めて、告別説教を語る。
「涙とともに主に仕えてきました」(19)と語るとおり、宣教においては、神に仕えるよろこびとともに苦痛が伴い涙を流すことがある。しかしキリストは、人の涙を見て同情し共に涙を流してくださるお方であり、その涙を拭ってくださるお方であり、「わたしのくびきを負って(マタイの福音書11章29節)」とおっしゃっり、私たちのくびきを軽くしてくださり、傍らをともに歩んでくださるお方。
「益になることは、……余すところなくあなたがたに伝え、また教えてきました」(20)とあるように、キリストにとらえられた者として、まことの益すなわち「天上にあるすべての霊的祝福」(エペソ人への手紙 1章 3節)にあずかりながらこの人生を歩んでいきたい。
神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。(ローマ人への手紙 8章 29節)
エサウが猟から疲れ切って家に帰って来た時、ちょうど双子の弟のヤコブがレンズ豆の料理を用意しているところだった。あまりの空腹にその料理と引き換えに、エサウは長子の権利をヤコブに売ってしまう。ヤコブの策略にまんまとはまったエサウは後になって後悔し、ヤコブを憎むようになる。
初めの人アダムとエバもサタンにそそのかされて神を裏切り、永遠のいのちと引き換えに一つの木の実を食べてしまう。このことによって人類はただ死と滅びに向かうものとなった。しかし神はそれでも人間を愛し、御子キリストがこの世に降り、人間の罪を全て背負って身代わりとして死に、よみにまで下ってくださった。人はこのキリストを信じるだけで永遠のいのちを得られるという救いの道を神は用意された。ここに神の愛がある。
神がこれほどまで大きな犠牲を払って私たちに与えられた永遠のいのちを、この世のむなしいものに目がくらんで放棄するような愚かなことは、絶対にあってはならない。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
(ガラテヤ人への手紙2章20節)
パウロは、ガラテヤ人への手紙の初めの2章を費やして、自分は何者なのか、何の権威によってこれらのことばを書き送っていくのかを証ししている。罪人である人間は律法を守ることによって神の前に義と認められることはなく、人の罪を背負って神に呪われ十字架で死に、よみに降り、そこからよみがえったキリストを信じる信仰によってのみ人は救われるという「信仰義認」の教義をはっきりと語る。キリストを信じるということは、古い自分はキリストとともに死に、よみがえったキリストとともに生きるという、キリストと一心同体となること。だからパウロは、もはや自分ではなくてキリストが自分のうちに生きていると語り、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」(ピリピ人への手紙 1章 21節)と、生きるにしても死ぬにしてもキリストにある有益な人生を歩んでいることを力強く証ししている。そのようなパウロを見習ってこの世を歩んでいきたい。
主よあなたは私のたましいをよみから引き上げ私を生かしてくださいました。
私が穴に下って行かないように。(詩篇30篇3節)
(詩篇30篇より)
ダビデはこの詩篇の冒頭で、「主よ私はあなたをあがめます」(1)と主を賛美している。その理由は「あなたは私を引き上げ私の敵が喜ばないようにされたから」と語る。国王として敵国から国を守る責任があったダビデは、自身も内外の敵からいのちを狙われていた。また信仰者であった彼に対してのサタンの攻撃も相当なものであったろう。しかし彼が主に叫び求めると、主は彼を癒やしたとある(2)。主は私たちの叫びの声を聞かれ、御手を伸べてくださる。私たちの悩み、苦しみ、問題を手放して、すべて主の御手に委ねる時、主は代わりに祝福を私たちの手に乗せてくださる。キリストを信じる者はよみから復活されたキリストとともに「たましいをよみから引き上げ」(3)られ、人間の核であるたましいが主によって生かされる。主の御名をあがめつつ歩みたい。
世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。
(ヨハネの福音書16章33節)
(ヨハネの福音書16章より)
「私たちは、あなたが神から来られたことを信じます」という弟子たちに対し、応答するが、イエス様は、「あなたがたは今、信じているのですか。
その時が来ます。いや、すでに来ています」と答えた。神の国の到来は、信じる者のうちにすでに始まっている。そしてイエスは「わたしはすでに世に勝ちました」とおっしゃった。たとえこの世で私たちが傷つき倒れ、死んでいるように見えても、イエスにあるならばすでに世に勝っている。罪を贖って死んだイエスの死とよみがえったイエスのいのちと一体となっているからである。私たちは主にあって「圧倒的な勝利者」なのだ。
わが神 主よ
私が叫び求めると あなたは私を 癒やしてくださいました。
(詩篇 30篇 2節)
(マルコの福音書10章46-52節より)
町々村々を巡って神の国を説き、悪霊を追い出し病人を癒やしていたイエス様の一行がエリコの町を出ようとしていた時、道端に座っていた盲人の物乞いが、「イエス様、私をあわれんでください」とイエス様に叫び始めた。イエス様は足を止め、彼を招いて「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねると、彼は「先生、目が見えるようにしてください。」と答える。イエス様が「あなたの信仰があなたを救いました」と言うと、彼はすぐに目が見えるようになり、イエス様の後に従って行った。
神は私たちの悩み苦しみをすべて知っておられるが、私たちが神に叫び求めること、具体的に願いを申し上げることを待っておられる。神は私たちの叫びの声を聞いてくださり、必要な助けやいやしを与えてくださる。「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇 30篇 5節)とあるように、神様は私たちの涙の叫びを喜びの叫びへと変えてくださる。主に感謝と賛美の叫びを上げながら、私たちは神に従って行くことができる。
わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
(ヨハネの福音書 11章 25節)
第3次宣教旅行を終えてエルサレムへの帰途、パウロは一行とトロアスで落ち合った。彼らは「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」(7)。この時からキリストを信じる者が日曜日ごとに集まり、キリストを礼拝し、交わりをしていたことがわかる。「パンを裂く」というのは、形式的な聖餐式を行っていたというよりは、自分たちが集っているのは、キリストの贖いのゆえであることを覚え、確認するということであったろう。
パウロの話は夜遅くまで続いたが、窓のところに腰掛けて聞いていたユテコという青年は眠り込んで3階から落ちて死んでしまう。しかし、パウロは彼を抱きかかえ、「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。神様は彼に目を留めてあわれみ、彼は息を吹き返したのだった。礼拝に出席しても居眠りをしたり、みことばを聞いても意味がわからないこともある、しかし、それは確かに神とともに過ごしたかけがえのない時間であり、神の前に心も体も休めていること。それを神はとがめるだろうか。
神は道を踏み外し倒れた者を生き返らせることのできるお方である。私たちのたましいにキリストのいのちがあるならば、私たちはまたやりなおせる。また立ち上がれる。そして神との愛、兄弟姉妹との愛の交わりに生きることができる。この喜びと慰めのうちに、私たちは憩うことができる。
見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。
兄弟たちが一つになってともに生きることは。
(詩篇 133篇 1節)
(創世記25章より)
妻リベカに子どもが出来ずに、このままではアブラハムの子孫が増え広がるという神のみこころが成就しないのではと憂慮したイサクは、神に必死に祈る。その祈りに神は答えられ、リベカは双子を妊娠する。しかし、その双子が胎内でぶつかり合っていることで今度はリベカが心配し、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう」と主のみこころを求めて祈る。主からは、二人の子はそれぞれ国民となっていくが、兄が弟に仕えるという、対立が続いていくことが語られた。
兄弟の対立は人間の罪の現れであり、その罪が国同士の戦争という悲劇を招いていく。そのようなこの世に、キリストこそがその贖いによって人を新しく造り上げて平和を実現してくださる(エペソ人への手紙 2章 14〜17節)。真の平和は、争いがないことではなく、一つになって愛し合うことであり、そこに本当の喜び、楽しみ、幸福がある。
神は私たちの祈りを用いることによって、私たちを神のみこころの成就に参与させてくださる。今、本当の平和を作り出す者としての祈りをささげたい。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
(コリント人への手紙第二 1章 4節)
(ガラテヤ人への手紙 2章10-14節より)
エルサレム教会での会議において「貧しい人たちのことを心に留めるように」と進言されたパウロだが、彼はそれまでに困窮の中にあるエルサレム教会を覚え、諸教会から支援金を集め、届けていた。またパウロは、割礼派の人々の目を恐れて異邦人との交わりを断ったペテロに対して、異邦人を律法を持たない民として蔑んでいながら、福音の真理にまっすぐに歩んでいるとは言えないその行いを強く非難したことを語る。
ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、異邦人に対しては異邦人のように、「すべての人に、すべてのものとなりました」と、どんな人にも寄り添う姿勢を見せたパウロだが、それは人間に寄り添うために神の御姿を捨ててこの世に降られたキリストの姿と重なる。
インマヌエルなる神であるキリストは、どこまでも私たちに寄り添ってくださり、ともに喜び、ともに泣いてくださる。そして、そのキリストの霊を宿す私たちは、今度は人に寄り添う者となっていく。
力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。
(詩篇29:1)
(詩篇29篇より)
すべての人はまことの神に造られた存在であるのだから、そのまことの創造主に栄光を帰するべきであるとダビデは語る。「聖なる装いをして」(2)とあるが、全人類の罪をおおう義の衣となってくださったキリストを信じることで、私たちは主の前にふさわしい者とされ、主の前に出ることができる。そしてダビデは「主の声は水の上に〜」と、主のことばによる創造のみわざを数え上げる。その主が今私たちに声をかけてくださるということは、私たちを通してみわざをあらわそうとしておられるということ。さらにダビデは「主は大洪水の前から御座に着いておられる」(10)とノアの洪水によるさばきと救いのみわざに思いを馳せる。神の創造のみわざ、救いのみわざを思う時、私たちはその栄光に輝く神の御名をほめたたえずにはいられない。私たちは神様に栄光を帰するために存在しているのだから。
求めなさい。そうすれば受けます。
あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。
(ヨハネの福音書 16章24節)
(ヨハネの福音書 16章21~28節より)
イエス様が十字架にかかって死ぬ直前に語った「告別説教」にて、イエス様と離れ離れにならなければならないことを聞いた弟子たちは困惑し、悲しみに暮れてしまう。意気消沈する弟子たちにイエス様は、子を出産んだ女性はその喜びのために産みの苦しみを忘れるという例えをあげて、キリストを信じる者には、悲しみが喜びに変わる時が来ることを語る。
そして再びキリストとまみえる「その日」が来るときに、私たちははっきりとキリストを知り、神との完全な愛の交わりに生きることができる。神の国はいつ来るのかと問われたキリストは「神の国はあなたがたのただ中にある」と答えた。やがてくる来る神の国は、キリストを信じる者のうちにもうすでに始まっている。御霊によってたましいに新しいいのちを宿す者は、悲しみから喜びに変わる「その日」がもうすでに始まっているのだ。ここに私たちの希望がある。
神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(テモテへの手紙第二 3章 17節)
(使徒の働き 20章1〜6節より)
第3次伝道旅行を終えようとしているパウロは、「弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げ、マケドニアに向けて出発した」(1)。「そして、その地方を通り、多くのことばをもって弟子たちを励まし」(2)た。この「励まし」ということばは、原語では「傍らに招く、説き勧める、励ます、慰める、力づける、教える」といった意味を含んでいる。この地方の聖徒たちに会うのは最後であると予期していたパウロは、彼らが霊的に成長して教会を牽引していく存在となるように願い、みことばをもって励ましを与え、別れを告げた。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(テモテへの手紙第二 3章 16)とあるように、神は、いつも私たちの傍らにいてくださり、私たちが成長しすべての奉仕にふさわしい者となるように、みことばをもって私たちを励ましてくださっている。
その子をイシュマエルと名づけなさい。主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。(創世記 16章 11節)
(創世記25章9~15節より)
神様から妻サラに子どもが生まれるという約束を頂いたアブラハムだったが、サラがなかなか身ごもらないことに業を煮やして、女奴隷ハガルに子どもを身ごもらせてしまう。優越感に浸るハガルにサラは怒り、彼女を荒野に追い出してしまうが、神はハガルの苦しみの声を聞かれ、彼女を励まし、アブラハムのもとに戻り、その子をイシュマエルと名付けるように命じる。サラにやがてイサクが生まれると、サラはハガルとイシュマエルを疎ましく思いまたもや追い出してしまう。二人が荒野で野垂れ死にする寸前のところを、神がその子の声を聞かれて、ハガルに水を与えいのちを救う。
ずっと離れ離れになって成長したイサクとイシュマエルだったが、アブラハムの死に際して、二人で父親を葬っている。その後イシュマエルには、主の約束通り12部族が与えられ、祝福のうちを歩んだイシュマエルは、アブラハムと同じく神の民に加えられた。
神は表舞台の人だけでなく日陰を歩んでいるような人にも目を留めてくださり、その苦しみの叫びの声をしっかりと聞いてくださる。そして神の福音は人間に、神と人とに対する和解をもたらす。
「主は聞いてくださる」という主の御名から名付けられたイシュマエルの生涯のうちに、私たちは神の福音のすばらしいみわざを見ることができる。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
(ヨハネの福音書 3章6節)
(ヨハネの福音書 3章より)
イエス様のうちに真理があることを直感したユダヤ人の議員ニコデモは、夜間、人目を忍んでイエス様のもとを訪ねた。神の国に入るためにはどうすればよいのかという問いをニコデモが心に秘めているのを察したイエス様は、ニコデモが質問しないうちに「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(3)と答える。罪人である人間は、人間の一番中心といえるたましいが死んでいるので、御霊によってたましいが生かされない限り人は天の御国に入ることができない。
復活したキリストは天に昇られる際に弟子たちに語った地上での最後のことばは、"聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、……わたしの証人となります」(使徒の働き 1章 8節)であった。
御霊によって私たちは、力強く神の栄光をあらわしていく者と新生される。これが福音の素晴らしさである。
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(テモテへの手紙第一 2章 4節)
(ガラテヤ人への手紙 2章より)
パウロはガラテヤ教会への手紙を、彼らが偽りの教えに騙されることなく「福音の真理があなたがたのもとで保たれる」ことを願ってしたためている。
当初は異邦人が割礼を受けなくても救われると説くパウロの宣教方法に異を唱える声もあったが、エルサレムの会議において異邦人が救われるためには割礼は不要であるということが確認された。ヤコブとペテロとヨハネはユダヤ人に、パウロとバルナバには異邦人に伝道することが神からそれぞれに与えられた使命であることを、互いに認め合うことができた。
キリストは自身が真理であると明言された(ヨハネの福音書 14章 6節)。この真理にすべての人が招かれている。キリストはすべての人の贖いのために死なれたからである。そしてこの真理は、私たちを罪のなわめから開放する。私たちは自由にされる(ヨハネの福音書 8章 32節)。
どうか御民を救ってください。あなたのゆずりの民を祝福してください。
(詩篇28篇9節)
(詩篇28篇6-9節より)
ダビデはこの詩篇の冒頭で「主よ私はあなたを呼び求めます。わが岩よどうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください。」(1)と祈っているが、6節では「ほむべきかな主。主は私の願いの声を聞かれた」と語る。この2つの節の間に時間的な隔たりはない。祈りには、その答えを確信し、先取りできるという恵みがある。ダビデは祈ったときに、すでにその答えを得たのである。
そしてダビデは主を信じる民を「ゆずりの民」(9)と表現している。主の民は主の財産を相続する権利をもっている。主の豊かさや主が用意してくださっている永遠の住まい以上に、私たちが相続するのは主ご自身なのである。キリストの十字架のあがないのみわざのゆえに、私たちは身に余る光栄をいただけるというこの福音の偉大さには、ただただ驚かされる。
あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
(ヨハネ16章20節)
(ヨハネ16章12-20節より)
イエス様からこの世での別れの時が近づいていることを知らされた弟子たちは、悲しみに押しつぶされる思いで最後の説教を聞いていた。そんな彼らにイエス様は「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます」(16)と、再び主とまみえる時が来るこという励ましの言葉を続ける。
今、私たちはイエス様を見ることはできないが、キリストを信じる者にはキリストの御霊が与えられる。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」(13)とあるように、この御内住しておられる御霊によって、私たちはいつもキリストと相まみえるようにして歩むことができる。そして「あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20)という約束どおりに、このキリストが私たちの人生に逆転をもたらしてくださるのである。
今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。(歴代誌第二 7章 15節)
(サムエル記1章より)
子どもを授からないことで心を痛めていたていたハンナは、宮で涙の祈りをささげていた。そして誓願を立てて「もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします」と祈る。それは自らが主のしもべであることをわきまえ、主は憐れみ深い方であることを信じての祈りであり、主が願いを叶えてくださったら、彼女は一番大切なものを主に差し出すという献身の祈りであった。
果たして、主はその祈りに答えられ、翌年男の子が生まれた。主の御名によって祈った答えとして神がくださったということで、その子はサムエル(「その名は主」の意)と名付けられた。彼は主のもとで成長し、やがて神の民イスラエルを正しく導く者となっていく。一人の母の祈りが神の民全体の祝福につながったのである。
私たちは皆、母親から生まれ、誰かに祈られて主を知るものとなったことを覚え、肉の母、霊の母に感謝するとともに、人の祝福のために祈る者となりたい。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
(詩篇 37篇 5節)
(使徒の働き 19章より)
パウロは、エペソでの伝道に区切りをつけて、「マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行く」という計画を立てるが、それは「御霊に示され」(21)てのことであった。もちろん彼はさまざまな状況を鑑みて宣教計画を立てるはずだが、最終的には神の御霊に任せていたということである。神にこの身を委ねてこそ、神は私たちを用いられるのである。
そのころ、エペソの街中に大変な騒ぎが起こった。ギリシャの女神アルテミスの神殿の模型を作る銀細工人たちが、パウロが商売を邪魔していると言って騒乱を起こしたのである。聖書は「この道のことで」(23)、と記しているが、これは、キリストを信じる信仰のこと。私たちがキリストに従う時には、必ずこの世との摩擦は生じる。それはこの世の法則とは違う法則に生きるからである。
エペソの町の書記官が群衆を静めて、パウロは御霊に示された道を進むことになるが、それは神の配剤のうちに事が進んだのである。
結局のところ私たちは、主に、「この道」を委ねていくしかない。主が共に歩んでくださり、何よりも確かな御手をもって導いてくださるのだから。
あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。
(詩篇 16篇 11節)
(創世記25章より)
アブラハムは自分の人生に幕を下ろす時が近づいていることを知り、終活をしている。「自分の全財産をイサクに与えた」(5)。というのは、個人的に誰よりもイサクを愛していたということ以上に、アブラハムへの祝福はイサクが引き継ぐという神様のことばに従ったゆえだと言える。そして「側女たちの子には贈り物を与え」「彼らを東の方、東方の国に行かせ」(6)たのは、財産相続を巡る争いが起こらないための予防策だと考えられる。
「アブラハムは幸せな晩年を過ごし」「満ち足り、息絶えて死んだ」(8)と聖書は記している。彼は決して一点のシミもない信仰生活を送ったわけではない。不信仰のゆえにいろいろな失敗もした。しかし彼はいつも神と共に歩んだのである。自分の弱さに寄り添ってくださる神に任せて歩んだ、その信仰のゆえに、彼は義と認められ、主とともに永遠に生きる者となったのである。
私たちもアブラハムのように「幸せであり」「満ち足りた」生涯を送るようにと、今、主は招いてくださっている。
それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。
(コリント人への手紙第二 1章9節)
(コリント人への手紙第二 1章より)
パウロは宣教活動において激しい迫害受け、死に直面したことが何度もあったが、それらの出来事によって自分自身を頼る者から神を頼る者とされたことを語る。その神は使者をよみがえらせてくださる力あるお方。この世で苦しみを受け死なれたキリストをよみがえらせた神は、主を信じる私たちをも同様によみがえらせ、永遠のいのちに生かしてくださる。私たちは、この世の「たましいを殺せない者たち」(マタイの福音書10章28節)を恐れることはない。
そしてパウロは、「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます」(11)と、主にある働きが守られるように、祈りの要請をしている。皆で心を合わせて主に祈る祈りを主は聞いてくださる。
今、生命を脅かされている人々のために、またサタンの霊的な攻撃にさらされているお互いのために、よみがえりの主に祈っていきたい。
私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(コリント人への手紙第二 1章 5節)
(コリント人への手紙第二 1章より)
パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で、まず彼らを励ましている。それはどんなに激しい迫害の中にあっても、神によって守られたという自らの体験に基づいたものだった。何度か死に直面していたこともあったパウロが、
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(4)とそこには神の慰めがあったことを語っている。
キリストは、私たち人間の苦しみをすべて味わうためにこの世に降られた。だからこそ、私たちの苦しみをすべて知っておられ、私たちに同情し、慰めることができるお方なのである。そして「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(ペテロの手紙第一2章24節)とあるように、キリストの十字架のあがないのゆえに、私たちにまことの癒やしが与えられているのである。
そして、このキリストのあがないを知った者こそが、本当の慰めと癒やしを人に届けることができるのである。
ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。
(サムエル記第一 12章 24節)
(サムエル記第一 12章より)
イスラエルの民をさばく士師であったサムエルは、新しく王が立てられたことでその役目終えることになり、民に向かって最後の言葉を語る。「あなたがたは、このすべての悪を行った」という言葉のあとに、「しかし、主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい」(20)と続ける。不信仰のゆえに王を切望した民の悪をしてきしたが、これからは主に従うように促す。神が自らのいのちを犠牲にして民の罪を贖うという主の御名がそこにあるからこそ、私たちは罪から開放されて、前に進むことができる。キリストの贖いの血はすべての人のすべての罪に対して有効だからである。まことの神様を信じて歩む人の人生は、平安があり、喜びがあり、永遠のいのちに生き続けることができる。私たちの手を引いて歩んでくださる主に委ねて、主に従う道を進んでいこう。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
(ヨハネの福音書 8章 32節)
(ガラテヤ人への手紙 2章1-5節)
パウロは、当時の教会の本拠地エルサレムに、バルナバとテトスを連れていった。ユダヤ人のバルナバは昔ながらの戒律に従って割礼を受けていたが、異邦人のテトスは割礼を受けてはいなかった。しかしそこでテトスは割礼を強いられることはなく、キリストを信じる信仰に割礼の有無はまったく関係ないというパウロの宣教の内容が公に認められることとなった。
私たちは福音の真理から人々を引き離そうとする「偽兄弟」たちのことばは私たちを文字によって束縛しようとするが、真理は私たちを自由にする。神の前に、私たちは信仰によって義と認められることを確信して歩んでいきたい。
主を呼び求める
私は声をあげて主を呼び求める。
すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。
(詩篇 3篇 4節)
(詩篇28篇1-5節より)
国の指導者として、また信仰者としていつも苦悩のなかにあったダビデは、「主よ私はあなたを呼び求めます」「私の願いの声を聞いてください」と神に呼び求めている。ダビデが最終的にすがる相手はまことの神であった。また、「彼らの行いとその悪にしたがって彼らに報いて……報復してください」と神に敵対するものへの復讐を祈る。これは個人的な恨みからというよりも、地上において神の国と義が実現するようにと求める神の民としての祈りである。
人類は、神に反逆し敵対し罪人となり、死と滅びに向かうものとなったために、苦悩を背負うようになった。その叫びに答えて、神はひとり子キリストをこの世に送り、十字架で死なせることで、人間を罪の呪いから開放してくださった。
神は今も私たちの叫びの声を聞かれ、答えてくださる。この神にすがって歩むことができるとはなんと幸いなことであろうか。
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙 8章 28節)
(ヨハネの福音書 16章5-11節より)
この地上を去る時が近づいているというイエス様のことばを聞いて悲しみ困惑する弟子たちに、「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。……行けば、わたしはあなたがたのところに助け主(聖霊)を遣わします」(7)と、イエス様は励ましのことばを続ける。そして、聖霊は「罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかに」なさると説く。聖霊によって人は初めて自分が罪人であること、イエス様が義なるお方であり、この世を支配するサタンを打ち負かすお方であることをはっきり知ることができる。
私たちに益をもたらすために、キリストは自らのいのちを犠牲にし、神のさばきを受けてくださった。この愛のみわざを覚えつつ歩んでいきたい。
私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。
(ヨハネの手紙第一 4章 6節)
(使徒の働き 19章11-20節より)
パウロのエペソでの伝道の成果を、「神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた」(11)と聖書は記し、宣教の働きは神の御霊によって進められていることを名言している。
エペソでは、ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱えてると、悪霊は逆に彼らを恫喝し叩き出してしまう事件が起きた。神を試みて、神の御名やみことばをまじないや呪文のように唱えることは、神を汚す行為であり、霊的な自殺行為ともいえる。この事件を知った多くの者が、まこと神の御名のきよさを知り、パウロのもとにやって来て、それまでの汚れた行為を告白し、魔術の本を持ってきて焼き捨てた。「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった」(20)。
魔術、占い、まじないなどのカルトは偽りの霊による 、神の目に最も忌み嫌われる行為であり、聖書は固く禁じている。私たちは神のきよい霊によって歩むのであり、そこに本当の祝福がある。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙 5章 31〜32節)
(創世記24章62-67節より)
イサクの嫁として来てほしいとのアブラハムのしもべの申し出に、リベカは「はい、参ります」と答え、らくだに乗りイサクのもとへとはるばる向かっていく。主のみこころに口を挟む余地はないという敬虔な家族のもとでリベカもその信仰が培われたのであろう。これは、自分の身を通して人類が祝福されるという大任に「おことばどおりこの身になりますように」と応えた乙女マリアの心境と重なる。この身を神にささげることで主のみこころがなるということこそが信仰の人生の成功といえる。
そして一番最初にその身を差し出したのは、神の一人子、イエス・キリストであった。彼は人間の罪を背負って死ぬために、この世に人の姿をとって生まれてきた。
教会とキリストは婚姻関係のように、お互いをささげ、結ばれ、一体となっていく。私たちが神にこの身をささげていくときに、教会がキリストのみからだとして成長していく。
神の恵みによって、私は今の私になりました。
(コリント人への手紙第一 15章 10節)
(ガラテヤ人への手紙 1章18〜24節より)
ガラテヤの諸教会へ宛てた手紙の冒頭でパウロは、この手紙を神から託された神のことばとして受け取ってほしいとの強い願いから、自分がまぎれもなくキリストの使徒であると丁寧に自己紹介をしている。パウロは人間的なつながりをできる限り避け、このことはただ神から出たということを強調するようにして、宣教師としての歩みを始めた。
「人々は、『以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている』と聞いて、私のことで神をあがめていました」(23-24)と、神に触れられて人生が180度変わった自分を人々が見て、その人々がまことの神を信じていることを語る。人に証しを語るというのは、「かつての私が、神に出会い、今の私になった」と話すこと。
神の栄光があがめられるように「神の恵みによって、私は今の私になりました」と証しする者として歩んでいきたい。
待ち望め主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め主を。(詩篇 27篇 14節)
(詩篇27篇より)
ダビデは神に、「主よ あなたの道を私に教えてください」(11)と祈る。これは、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる」(箴言 16章 9節)ということを確信しての求めであった。全知全能の神に尋ね求める人生の道は誤ることがない。「私を平らな道に導いてください」(11)ということばは、周りを敵国に囲まれている国の王としての切なる願いのことば。すべてのものの造り主である神は、すべての災から守ることができるお方。この方に委ねたときに、その道は安全な道、安心・平安の道となる。ダビデは「待ち望め主を」(14)とこの詩を締めくくる。神の救いを信じる者は、神と永遠に生きる。この永遠の神に望みを置く幸いが、私たちには与えられている。
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。
(箴言 16章 9節)
(ヨハネの福音書16章1〜4節より)
弟子たちに語った最後の説教においてイエス様は、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないため」(1)と語る。神のみことばは、私たちが人生においてつまずかないように、その道を照らすもの。そして、「これらのことをあなたがたに話したのは、その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すため」とも語った。キリスト者が迫害に遭ったときでも、助け主なる聖霊がみことばを思い出させてくださる。世に憎まれているということは確かにキリストのものとなっていることであることの証拠であり、喜ぶべきことである。主のみことばを心とたましいに刻み、人の歩みを確かにされる主に任せて進みたい。
手を伸ばしなさい。(マタイ12章13節)
(マルコ5章25-34節より)
12年間長血を患っているひとりの女性は、医者にひどい目にあわされ、財産を使い果たしてその病状はますます悪化してしまう。当時は汚れた者とみなされたその病のため、彼女は肉体的、精神的、経済的、社会的に絶望の淵に立たされてしまっていた。そんな時、イエス・キリストのうわさを聞いた彼女は、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と信じて、イエス様のもとに行き、群衆をかき分け近づき、後ろからそっとイエス様の衣に触れる。その途端、彼女の体は癒やされた。すぐさまイエス様は振り向いて「だれがわたしにさわったのか」と捜し始める。恐る恐る進み出て事情を話す彼女に、イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と彼女の信仰をたたえた。
私たちを捜し、見つけ出し、優しく励ましの声をかけてくださる神様。このお方に救いがあると信じ、イエス様のもとに行き、主の懐にこの身を任せるときに、主のみわざが成る。それが神様に手を伸ばすということなのである。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
(ヨハネの福音書 3章 6節)
(使徒の働き19章1~5節より)
第3次宣教旅行を開始したパウロはエペソで信者たちを訪ねたときに、「信じたときに聖霊を受けたか」と問うと、「聞いたこともない」という返事。さらに、ヨハネのバプテスマだけを受けたとのことであった。アポロは教養があり雄弁で、熱意をもって宣教していたが、エペソで伝道していた頃の彼は、福音の理解が十分でなく、イエスを信じて聖霊によって新しく生まれることを伝えてはいなかった。
聖書知識が乏しくても救われた体験を明かしすることができるが、福音全体を正しく理解し、バランスをもって語ることが大切である。熱心さと同時に教会を健全に立て上げるための学びを続けていきたい。
神から出た者は、神のことばに聞き従います。(ヨハネの福音書 8章 47節)
(創世記24章50-61より)
アブラハムのしもべの、リベカをイサクの嫁に欲しいという願いに、リベカの兄と父は、「主からこのことが出たのですから」「主が言われたとおりに」と快諾する。翌朝、早々にリベカを連れて帰ろうとするすもべに、彼女の兄と母は、「しばらく、十日間ほど私たちのもとにとどまらせて」と懇願するが、しもべは「主が私の旅を成功させてくださったのですから」と譲らない。仕方なくリベカに確かめると、リベカはしもべについていくと答え、イサクのもとに旅立っていった。
まことの神を畏れて歩む者は、神から出た者である。人間的なつながりや心情よりも、神のみこころを優先させ、神のことばに聞き従う時、神様の祝福が私たちのまわりに、この地へと広がっていく。
兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。
(ペテロの手紙第二 1章 10節)
(ガラテヤ人への手紙 1章13〜18節より)
パウロはこのガラテヤの諸教会への手紙を書くにあたり、自分は確かにキリストの使徒であり、この手紙のことばは神からの権威によるものであることを明言する。厳格なユダヤ教徒として生まれ育ち最高教育を受けたパウロは、聖書の知識は誰よりも豊富であったが、イエスが聖書が指し示すキリストであることを信じることができなかった。そしてかつては「激しく神の教会を迫害し」(13)「先祖の伝承に人一倍熱心」(14)な者であった。しかし「母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった」(15)と神がその権威によって選びの器としてくださったことをパウロは証ししている。
私たちは生まれる前から神に知られ、愛され、選ばれてキリストを知り、この世のものから自由にされた。決して無効になることがないこの神の選びと召しに生きる時、私たちはさらに確信を強くし、また神の恵みを証しする者となっていく。
どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。
(詩篇 67篇 1節)
(詩篇27:7-10より)
ダビデは、「聞いてください主よ。私が呼ぶこの声を」と主に呼びかける。神は私たち人間の叫びの声を聞いてくださるお方であることを確信しての祈りである。「不思議な助言者」である神は、まことのカウンセラーである。そして「主よあなたの御顔を私は慕い求めます」と、神が私たちを愛と慈しみをもって御顔をあらわしてくださることを求める。「御顔を私たちの上に照り輝かせて」ということばは、いくつかの英語の訳では「スマイル」と訳されている。罪人である人間が神の憐れみとキリストの贖いによってきよい者とされ、神と顔と顔を合わせる時が来るという希望が私たちにはある。「見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神よ」という言葉は、神がいつも私たちと共におられる「インマヌエル」なるお方であるという神の御名に基づいての祈りである。
ダビデは神のまことを確信しているからこそ、神に祈り求めている。この年、主のみ顔を仰ぎ見つつ歩む一年としたい。