私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(Ⅰコリント12:13)
12章において、パウロはコリント教会に対して、同じ御霊から人それぞれに異なった賜物が与えられ、「同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさ」(6)ると説き、教会においては個人の違いが分裂・分派へとはつながらないことを諭す。
「どうせ私はいらない」という自己卑下や「あなたは必要ない」という傲慢のことばは、この世的な機能的人間論から来るもの。私たちは聖書に基づいた人間観をもって人の価値を尊ぶのである。
人間の身体のほとんどは水であると言われるが、キリストのからだである教会も「みな一つの御霊を飲んだのです」(13)とあるように、イエス様から流れ出る御霊の水で満たされている必要がある。それを他のもので満たそうとして御霊を消すことがないように気をつけたい。
私たちは皆、おひとりの御霊なる神から任命されてキリストのからだのそれぞれの器官とされた。御霊にあふれて、御霊に満たされて歩み、キリストのみからだが成長するように歩みたい。