キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6)
パウロは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」(Ⅰコリント9:19 )と、多くの人のたましいをキリストのもとに連れて行くために、私はすべての人に仕えると語っている。
そしてそれは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように」(20)、 律法を持たない人々(異邦人)に対しては、……律法を持たない者のように」(21)、「 弱い人々には、弱い者に」(22)というように、それぞれの人の心に寄り添うことであった。
これはキリストのうちに見られる姿。「キリストは神の御姿である方なのに…ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ」(ピリピ2:6)たのである。パウロは、この「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)という確信を持っていた。
神は、私たち一人ひとりのところに来て寄り添ってくださるお方なのである。