「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)
(ルカ6:1-9より)
ある金持ちの金の管理人が使い込みをしてしまったことが主人に知られたので、主人の債務者たちの証文を安く書き換え貸しを作り、解雇された時に助けてもらおうとした。それを知った主人は、管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。というイエスの例え話。
ご自分を律法から外れた「不正な者」とさばくパリサイ人・律法学者の前で、イエスは皮肉のように、「不正の富で、自分のために友を作れ」と語る。罪人をさばくのが律法の正しさだが、イエスは「世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるため」 (ヨハネ3:17)にこの世に遣わされてきた。誰に「馬鹿げた」「愚かな」「不条理な」ことだと言われようが、律法を超えた神の愛と赦しがそこにある。
「やられたらやり返す」というのがこの世のルールであるかも知れないが、キリストは、「むしろ不正をも甘んじて受け」( 1コリント6:7)、「ののしられても、ののしり返さず(ペテロ第一 2:23)、私たち罪人を愛し赦してくださった。受ける資格のない者に与えられた、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」(ルカ16:9)とあるように、まさしく「不正の富」といえる神の恵みによって、キリストは私たちの友となってくださった。
この神の愛を受けて、私たちは人を愛し赦していく。それが神の愛を知った私たちの新しい生き方なのだ。