キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
(ピリピ2:6,7)
コリント教会では、派閥争いの問題の他に、偶像にささげられた肉を食べてよいか悪いか、という議論が持ち上がっていた。
まことの神おひとりの他に神はいないのだから気にしないで食べてもいいのだという理解のもとに、それを公然と行ってる人がいた。しかし、正しい知識に基づいたふるまいであったとしても、人をつまずかせるとしたら、それは「キリストに対して罪を犯している」(Ⅰコリント8:12)のだと、パウロは語る。さらに、「もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません(13)と、パウロは自分の権利を主張することよりも、他人への配慮を優先させた。
キリストは天の御座もいのちも捨てて、弱く汚れた私たちを救うために人となってこの世に来てくださった。私たちも、このキリストの愛をもって、自分を捨てて人に配慮していく生き方ができる。そしてそれが、キリストのからだである教会を健全に立て上げていくための秘訣ともいえる。
「神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです」(12:24)。