だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
過越の祭りの会堂でイエスは、やがて人の罪の贖いのために十字架にかかり、天に上り、父なる神の右に着座されることを暗に語る。「しばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」「 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう」(ヨハネ7:33,34)。しかし、祭司長やパリサイ人は、その言葉の意味が全く理解できなかった。
イエスは、律法を守ることにより義人になっていると自惚れて他人をさばいているパリサイ人を、度々辛辣な言葉で批判している。しかし、パリサイ人ではあったがニコデモという男は、イエスに真理を尋ね求め、そこで神の救いを知ることができた。
私たちが求めるべきものは「神の国とその義」。神が自分をご支配されるように自分を神に明け渡し、自分の力ではきよくなれないことを認め、神からの義を頂けるように求めていく。「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(ルカ11:10)というイエスの言葉のとおり、すべての人が、このイエス・キリストを捜し求め、見出していくことを神は願っている。イエスのうちにこそ永遠のいのちがあるのだから。