私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。(Ⅰテサロニケ 2:11,12)
パウロは、教会になるべく「負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら」(9)宣教に勤しんでいた。そして「敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるま」い、その信仰生活を彼らが見て学ぶように、信仰の親の務めを果たしていたといえる。
「父がその子どもに対してするように」(11)「ひとりひとりに」対して 目を留め、それぞれにふさわしく勧めをし、慰め、命じた。それは、「神にふさわしく歩むように」(12)彼らが成長するのを願ってのことであった。
「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5:48)とイエスが言われたように、私たちは、天の父のように敵をも愛するまことの愛を持つことを期待されている。そして「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと」(エペソ4:23,24)によって、私たちは天の父に似るものとされていく。
パウロは自分が語ったメッセージを「神の使信のことば」と表現し、それを彼らが神のことばとして喜んで迎え入れたことを神に感謝し、この神のことばは、信じている者のうちに働いていると語る。
このパウロの労苦と苦闘の姿に父なる神の姿を見ることができる。神は、さ迷う人間の姿を見て、心を痛め、いのちを投げ出して救いの道を用意なさった。神は私たちひとりひとりの名を呼んで、神にふさわしくなるようにと語られる。
神をまことの父とし、新しい人を着て歩み、みことばがうちに働くとき、私たちは、このお方に似るように、成長していくことができる。