主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。(ルカ4:18)
「使徒信条」の中の一節「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」ということば、ピラトはローマの総督として紀元26~36年に在位した人物。イエスを問いただして、彼には死罪にあたる罪はないと知りながらも、イエスを捕らえた祭司長たちや彼らにそそのかされた群衆の圧力、また妻の進言に負けて、イエスを処刑することを決定する。
しかし、これらすべてのことは、神がご計画されたことだったのです。人の罪を赦すためには、罪のないものを代わりに処刑するしかない。そして犠牲として選ばれたのが、神のひとり子、イエス・キリストであった。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)とあるように、キリストは、私たち人間を友として迎えてくださり、私たちのためにいのちを捨ててくださった。
イエスが宮で朗読した「主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を……」(ルカ4:18)というイザヤ書61章のことばは、他国の捕囚の民となっても開放されるという預言のことばだが、同時に、私たちを罪と死の奴隷からイエスが開放してくださることを語っている。
イエス・キリストが人類救済のために十字架で処刑されたのは、今から約二千年前の、ポンテオ・ピラトが総督だった時の史実なのである。