何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
(Ⅰペテロ4章8節)
ノアとその家族が箱舟から出てからのある日、ノアはぶどう酒を飲んで酔っ払い、天幕の中で裸になっていた。父の失態を見つけた息子のハムは、兄たち(セムとヤペテ)に告げ口し、辱めようとしたが、セムとヤペテは着物を取って、父の裸を見ないようにうしろ向きに近づき、父をおおい、父の威厳を尊重した。酔いから覚めたノアは、ハムには呪いを、セムとヤペテには祝福を宣言する。
人間はどこか、人の欠点や失態を暴き、責め立て、晒して辱めようとする性質を持っているが、神は私たちの罪を知りながら、なおも愛し、キリストの血によって罪をおおってくださり、キリストを信じる者を、全く罪がない者として見てくださる。
詩篇では、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれ人は。幸いなことよ、主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は」(詩篇32:7)とうたわれている。ここでの「おおわれ」は、「覆い隠す、覆い消す」とも訳されることばで、人間すべての罪と汚れを、神ご自身がその血潮で覆い隠してくださること。「お認にならない」は「数え上げない」とも訳せることば。「数えてみよ主の恵み」と私たちは歌うが、神は私たちの罪を数え上げようとはなさらないのだ。
キリストの贖いによって私たちのうちに罪を認めない神に感謝し、また神が人を見るような目で私たちも人を見ていけるように、主に願おう。