自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネ7:18)
祭りで賑わう都に出ていき、奇蹟を見せて人々の関心を買うようにと勧める兄弟たちの声には耳を貸さず、イエスは内密に都に上っていく。巷では、イエスについて「良い人」「惑わす者」など、いろいろと噂されていたが、ユダヤ人を恐れ、公然と語る者はいなかった。私たちはイエスについて、人前ではっきりと語ることができない場合がありはしないだろうか。恐るべきただひとりのお方のみを恐れ、誰の前でもイエスに対する信仰を告白する者でありたい。
宮で公然と語るイエスを見て、「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」(15)とユダヤ人たちは驚くが、「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです」とイエスは答える。イエスが語ることばは父なる神のことばである。また「父がなさることは何でも、子も同様に行なう」(5:19)とあるように、イエスの行動は常に父なる神の行いである。イエスは自分が注目を浴びたり名声を得ることではなく、常に父なる神の栄光が表されるために行動していた。
私たちは、ただ私たちも父なる神のみを恐れ、神が栄光を受けるためだけに生きたい。それはただ御霊の力によって成し得る。