見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。 (使徒の働き7:56)
ステパノは自分を捕らえたユダヤ人たちに対し、「いつも聖霊に逆らっていて、律法を守ったことがない」と断罪する(51,53)。このことばに怒りを燃やした彼らは、ステパノを殺そうと周りを取り囲む。自分の身の危険を感じたステパノは、天を見上げこう言う。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」 (7:56)。神を冒涜することばと捉えた彼らは、大声で叫びながら耳をおおい、彼を町の外に追い出して、石で打ち殺してしまう(57.58)。
体中の激しい痛みと遠のいていく意識の中で、ステパノは祈る。「主イエスよ。私の霊をお受けください」(59)「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」(60)。これは、十字架上のイエスの言葉に倣ったというよりも、イエスとその心が一つになっていたからこそ出たことばであろう。「敵を愛し、迫害するもののために祈る」イエスの姿がそこにはあったのだ。命を奪おうとする者たちに囲まれて天を見上げた時、ステパノは、イエスと同じ苦しみに与ることの喜びと感謝の思いで満たされ、平安に包まれていたことだろう。
この時、クリスチャンを迫害していたサウロ(後のパウロ)が間近で見ていた。ステパノの最期の姿を見て、何を感じたか。後に「死んでくださった方、いや、よみおがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)というパウロの手紙のことばは、このステパノの最期の姿が脳裏にはっきりと焼き付いている証拠ともいえる。
「世全体のための──なだめの供え物」(Ⅰヨハネ 2:1)となるために、神の座を捨てて人となってこの世に来た。クリスマスは、その神のまことの愛が現された出来事。今、その主の栄光を見上げよう。