その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:23)
ステパノは説教の締めくくりの部分で、神の幕屋、神殿について語る(使徒の働き7章)。「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません」(48)と、神殿と律法を絶対視・神聖視するユダヤ人を批判する。神の臨在の象徴である神殿が、ユダヤ人にとっては、自分たちの権威の象徴となってしまってたのである。ダビデの思い描いた神殿を完成させたソロモン自身も、「神ははたして地の上に住まわれるでしょうか」(Ⅰ列王 8:27)と語っている。これは、物理的・空間的な大きさというよりも、人智をはるかに超えた存在であるという告白である。
ステパノは、「あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか」というイザヤ書66章1-2節のことばを引用するが、聖書に精通していたユダヤ人たちは、その後に続く「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」ということばを自分たちへの皮肉として語っていることを悟ったことであろう。
神の臨在の象徴である神殿が、ユダヤ人にとっては、自分たちの権威の象徴となってしまっていたのである。ダビデは神に「あなたを喜び、誇ります」と告白しているが、私たちは神以外のものに権威を見出してしまう弱さがどこかにあるのではないだろうか。
最後にステパノは、ずばり「心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっている」(51)と、彼らを断罪する。聖霊が働いて、信仰者を通して、歴史を通して、そして聖書全体が、このメシヤ、救い主キリストの到来を預言しているのにもかかわらず、それでもキリストを否定するということは、神の御霊に逆らっているということにほかならない。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる」(Ⅰコリント3:16)とあるように、今、神は私達自身を御住まいとしてくださる。神が「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる)なるお方であることが具現化した出来事がクリスマス。この大いなるみわざの前にかしこまって過ごしたい。