ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
(Ⅰコリント4:16)
パウロはコリント教会の人々に、「この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです」(15)と、コリント教会を生み出した自分こそが、信仰という点においては父親であることを語る。そして、子が親に似ているように、「私にならう者と」(16)なることを願う。これは、決して自負心や驕り高ぶりや思い上がりからの言葉ではなく、むしろ、神のまえに低くされた者としての言葉である。
パウロはもともとはクリスチャンをを見つけては捕らえ、徹底的に教会を迫害し、滅ぼそうとしていた人物であった。しかしその彼が不思議な方法でキリストに捕らえられ、神の「選びの器」となり、キリストを宣べ伝える者と変えられた。「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」(Ⅰコリント15:10)と、自分には誇れるものなどなく、すべては神の恵みである。それぞれが信仰を持ったのも、すべて神の恵みなのではなかったと、自らを省みてほしいとパウロは願っている。
さらに、伝道旅行の途中で出会ったテモテを送ることを知らせる。それは、「キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれる」(17)からであるという。
パウロやテモテがキリストにならって歩んだように、私たちも主にならう生き方をすること、さらに私たちを通してキリストにならうキリストの弟子が起こされていくことが、神に期待されている。
ただひとつ願うのは、主のようになること。