主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
(詩篇15:1)
すべてを創造し、すべてを統べ治めておられる神の住まいを宿とする、あるいは住むことができる人がいるとすれば、それはなんという身に余る光栄だろうか。この詩の書き出しは、そんな栄誉に与ることができる人は一体誰なのかと始められている。
それは、「正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人」(2)なのだという。「正しく」という言葉は「まっすぐ」「完全な」という意味の言葉で、神の教えに従って、まっすぐに歩む人。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」(イザヤ書30:21)とあるように、私たちは正しい道を歩むために、神が語られることばを聞き逃さないようにしなければならない。また、「その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない」(3)と、舌を完全に制御することができる人、さらに、「神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ」(4)と、自分の都合よりも、神の視点で物事を判断する人。さらに、「損になっても、立てた誓いは変えない」。その姿は、人類の身代わりになって死ぬために神の座を捨てて地上に降りてきたイエス・キリストを彷彿とさせる。最後に詩人は、「このように行う人は、決してゆるがされない」と結んでいる。キリストという土台としている人生は揺らぐことがない。
ここに描かれている人の姿は、神の家に住むための条件や資格ととらえるよりも、神とともに歩むときの祝福・特権ととらえることもできる。
この祝福の家に私たちは招かれている。ダビデは詩篇23編で、こう謳っている。「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」