というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(Ⅰコリント3:11)
パウロは、コリントの教会に対し、「あなたがたは神の畑、神の建物です。」と語る。「私は賢い建築家のように、土台を据えました。」「その土台とはイエス・キリストです」と、自らの各地での伝道はイエス・キリストという土台を据えた働きなのだという。「教会」という言葉は「神に召しだされた者」を意味し、キリストにあって集められたひとりひとりのこと。だからキリスト以外に教会の土台はありえない。このキリストを礎としてその上に建て上げられていくのが教会なのだ。さらに、「この土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら」と、建物は価値のある建材で建て上げていく時に、災禍の中を耐えぬくことができることを例にあげて、教会はその真価が火で試されるときが来ることを語る。教会は、立派な会堂や活発な活動で判断されることがあるが、神の前に本当に価値のあるもので建て上げていくことが重要なのである。そして、この建物のたとえの最期に、パウロは、「あなたがたは神の神殿であ」ることを語る。キリストを信じる私たちのうちに、神ご自身が住んでおられる。神が共にいてくださり、いつでもどんな時でもこの神にと交わることがゆるされているというのは、何という恵みであろうか。私たちはこのキリストに土台を置く建物であり、神が建て上げてくださり、やがてイエスと出会う日に、神が完成させてくださるのだ。