そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。(コリント人への手紙 第一 2:4)
哲学やすぐれた知恵に価値を置くギリシャのコリントに伝道した時のことについて、パウロは、「すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした」と語る。英才教育を受けて非常に優秀ではあったパウロだが、知恵によって相手を論破したり雄弁に語り説得したりということではなく、その他のことは何も知らないかのごとく、ただ、十字架につけられたイエス・キリストのことを語った。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるため」(5)なのだという。人が信仰を持つのは、人の知恵や力によってではなく、まさに「御霊と御力の現れ」なのである(4)。パウロが語る宣教は「隠された奥義としての神の知恵」であり、それを神は御霊によって私たちに啓示される(10)。神の霊が私たち心の耳を開いてくださるとき、私たちは「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」(10)を悟ることができる。この身に御霊と御力が現され、真理を悟ることができるよう、祈っていこう。その時、この身を通してキリストがあかしされていく。