イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 (ヨハネ20:29)
イエス・キリストが十字架にかかってから三日目の日曜日の夕方、戸を閉めきって弟子たちが集まっている部屋に、復活したイエスは現れた。しかしその時、トマスは彼らといっしょにいなかった。トマスが戻ると、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」と言いうの聞き、彼は事の真偽を確かめるすべもなく、悶々とする。他の弟子たちを羨み、卑屈になってか、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言ってしまう。彼は、何でも自分で見て、自分で確かめなければ気が済まないタイプの人間だったのかも知れない。しかしそんな彼をイエスは放っておかれなかった。8日後に、弟子たちはまた戸が閉じられた部屋に集まっていたところに、またイエスが現れた。今度はトマスもそこにいた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」というイエスのことばに、トマスは恥ずかしさとともに、自分がひねくれて言ったことばをもイエスは受け止めてくださったと嬉しく思ったことだろう。彼は、「私の主。私の神」と言うのが精一杯だった。
イエスの「見ずに信じる者は幸いです」ということばは、このヨハネがこの福音書の読者に一番伝えたかったことだったのではないか。人類全体から見れば、イエスを直接見ることができたのは、地理的も歴史的にもほんのわずかの人間だけなのだが、ヨハネは「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」にこの福音書を書いたのだという記述からは、これを読んで多くの人が永遠のいのちを得てほしいというヨハネの熱い思いが伝わってくるようだ。今も聖書を通して、私たちは、イエスを神だと知り、信じることができる。「見ないで信じるものは幸い」ということばは、現代の私たちへの励ましであり祝福のことばなのだ。