主が振り向いてペテロを見つめられた。(ルカ22:61)
イエスが捉えられ、大祭司の家に連れて行かれた時、ペテロは遠く離れてついて行った。中庭にに集まっていた人々に紛れて座り込んでいたところ、女中が見つけ、まじまじと見て「この人も、イエスといっしょにいました」 と周りの人々に言うが、ペテロは「いいえ、私はあの人を知りません」と否定する。しばらくすると、ほかの男が、「あなたも、彼らの仲間だ」と言うが、また否定してしまう。さらに1時間ほど後にまた別の男が、ペテロのガリラヤなまりを聞いて、「確かにこの人も彼といっしょだった」と言い張る。ペテロが「あなたの言うことは私にはわかりません」と言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられたその時、ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、3度わたしを知らないと言う」と言われた主のことばを思い出した。イエスの一番弟子であることを自負し、「牢であろうと、死であろうと、覚悟はできている」とイエスに明言したペテロだが、いざイエスが捕らえられると、恐ろしさから、弟子であることを3度も否定してしまうことを、イエスは見抜いていた。ペテロは、自分の情けなさと恥ずかしさ、申し訳なさと後悔で彼の心は張り裂けるばかりになっていたことであろう。
しかし、そんなペテロを立ち直らせたものは、この時のイエスのまなざしだったのではないだろうか。そのまなざしは、決して自分を裏切ったペテロを責めるようなものではなく、葛藤するペテロに同情し、慈しみと励ましと期待とが込められていたものであったに違いない。「わたしは…… あなたのために祈りました。あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)とのことばどおり、イエスは、弱さを持つペテロのために祈り、立ち直って人を励ます者ととなるようにと期待しておられる。そのイエスの心がわかった時、「彼は、外に出て、激しく泣いた」( 62) 。その後ペテロは、「使徒の働き」に見るように、イエスの御名によってはずかしめを受けるに値するものとされたことを何よりも喜び、大胆に神のことばを語る人物と変えられていく。
このイエス様の温かいまなざしが、今も私たちに注がれている。