そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値(あたい)する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。(使徒5:42)
議会での使徒たちの言葉を聞いて、大祭司たちは怒り狂い、使徒たちを殺そうと計る。しかしその時、パリサイ派のリーダー的存在、ガマリエルだが立ち上がり、その頃民衆を惑わしていたチゥダとガリラヤのユダの例を上げて語る。それが神から出たものでないなら、その騒ぎはやがて収まるし、もし神から出たものならば、彼らを滅ぼすことはできない上、彼らを迫害することは神に敵対する者となるのではないかという。その言葉に説得された彼らは、使徒たちををむちで打ってから、イエスの名によって語ることを禁じた上で釈放した。議会から出て行く使徒たちは、何よりも、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされた」喜びに満たされていた。「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから」(マタイ5:11~12)というイエスのことば通り、使徒たちは迫害によって意気消沈するどころか、ますます燃えて、「毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」(42)。さげすまれ、むち打たれ、まさにキリストの苦しみに与らせていただいていること、何の価値もない者が、神に「値する者」とされたという大きな喜びがそこにはあったのだ。