私たちはそのことの証人(しょうにん)です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。(使徒の働き5:32)
大祭司とその仲間たちは、宮でみことばを語り、病人を癒やしていた使徒たちを捕らえる。しかし、議会に引き出すために獄舎に人をやると、「扉は完全にしまっていて、番人たちが立っていたのに、中にはだれもいない」という報告を受ける。当惑している彼らに、「彼らは宮の中で人々を教えている」との知らせ。そこで彼らはまたも使徒たちを捕らえ、議会の中に立たせ詰問する。あれほど禁じたイエスの名によって教えを広めたこと、イエスの死の責任を自分たちに負わせようとしていることを責める。しかし使徒たちは、「私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです」と、アブラハムと契約を結んだ同じ神が、イエスをよみらせたのだと、モーセ五書だけを聖典とし死者の復活を認めない彼らに対し、預言されていたメシヤ(救い主)を殺したことを非難し、今こそイエスのあがないによる新しい契約の時代が来たことを訴える。
「自分はイエスの死に責任がない」というのは最も神に背く態度といえる。自分のためにイエスは血を流されたと気づかされるとき初めて、私たちに神の愛と赦しがわかる。自分の罪深さを知ることは、私たちが悔い改めて、赦される機会となる。神はいつも私たちを救いに招いてくださっている。
使徒たちは、「 私たちはそのことの証人(しょうにん)です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」(32)と語った。イエスが捕らえられた時には逃げてしまうような彼らだったが、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」(1:8)というイエスのことば通りに、彼らは力強く証しをする者と変えられた。その神のことばは私たちのうちにも実現する。