そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。(使徒の働き5:11)
心と思いを一つにしていた教会は、貧しい者がないようにすべてのものを共有にしていた。ところがアナニヤは、地所を売った代金の一部を残しておき、残りを全額だと偽り、使徒たちのところに持ってきた。ペテロはそれを見抜き、「どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺い」たのか、と詰問すると、 アナニヤは倒れて息絶えてしまう。そのことを知らずに入ってきた妻のサッピラも、同様に使徒たちを欺こうとして絶命する。この夫婦は、バルナバなど、地所を売って全財産を献金した者が称賛される声を聞き、虚栄心が芽生えたのかもしれない。サタンはイエスをも、いっさいの権力と栄光を与えることと引き換えに、自分を拝むように誘惑している(ルカ4:5)。この時、「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた」(5:11)。 「教会」(ギリシャ語で「エクレシア」)ということばは、彼らは「神に召された者の集まり」という自覚があったことを表している。聖書で言う「教会」は、一つの聖霊によって生まれ、キリストのからだを形作る者たちのこと。虚栄心からのささげ物や奉仕は、神の前に何の役にも立たないどころか、聖霊を欺く行為。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)とあるように、私たちのからだ、すなわち、私たちの存在そのものを通して、日々、神に栄光を帰す歩みをしていくことこそが、まことの礼拝なのである。神を恐れつつ、このからだをささげ、まことの礼拝者として歩んでいきたい。