そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。(創世記4:15)
アダムとエバにカインとアベルが生まれ、カインは農作、アベルは牧畜を生業としていた。それぞれ神へのささげ物を持ってきたが、神はアベルとそのささげ物に目を留められ、カインとそのささげ物には目を留められなかった。カインはひどく怒り、顔を伏せる。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ」(ヘブル11:4)とあるように、神は、彼の信仰を見られた。「主は心を見られる」(1サム16:7) とあるように、神は私たちのささげ物そのものよりも、ささげる心を見られる。礼拝、賛美、祈り、献金、奉仕などは、私たちの心が伴わなければ、無意味なものとなるのだ。
カインの怒りは弟アベルに向けられ、彼を殺してしまう。その結果、その土地を離れ、さまよう者となってしまう。「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう」と初めて罪の重さを知るカインは、神に恐怖を訴える。そんな彼に神はなおも憐れみをかける。「彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった」(15)のだ。神は、人は生まれながらにして罪を背負っている私たち一人ひとりも憐れんでくださり、私たちのたましいが死ぬことのないように、イエス・キリストの十字架の贖いという「しるし」を与えてくださった。そして私たちは「約束の聖霊をもって証印を押され」たのだ(エペソ1:13)。このしるしがある限り、私たちを罪に定めるものはない。
胸の奥に潜む罪、汚れは隠していても消え去らないが、「自分の罪を言い表すなら、神は……その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめて」くださる。(Ⅰヨハネ1:9)
ダビデは、神に受け入れられるささげものは、「砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」だと歌っている。(詩篇51:17)
いつも神に最良のものをささげていきたい。そして、今、私たちには聖霊の証印が押されていることを感謝して歩もう。