メッセージのまとめ
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。(ルカの福音書2:10)
ベツレヘム郊外で野宿で夜番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、長い間民が待ち望んでいた救い主が誕生したことを告げる。「良い牧者」であり、同時に「世の罪をより除く神の子羊」となるキリスト。神殿でささげられる傷のない羊を飼育するためにも細心の注意を払って夜番までしていた彼ら羊飼いたちに、まず最初に救い主の誕生が告げられたのである。
天使は「この民全体に与えられる、大きな喜び」を告げ知らせると語る。そして羊飼いたちは、おびただしい数の天の軍勢が現れて、「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」と神を賛美する有様を目の当たりにする。神の栄光を表し、平和を作る者となることが、神のみこころであり、私たち人間の最大の喜び。罪を犯し、羊のようにさまよっていた人間に再びこの喜びをもたらしてくださったキリストに感謝しよう。
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイの福音書1:23)
(ルカの福音書2:1-7より)
いまから二千年前、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが「全世界の住民登録をせよ」という勅令を出し、ヨセフは身重の妻を連れてナザレからベツレヘムの街まで120kmの旅に出かける。そしてベツレヘムに滞在中、マリアは男の子を生む。これは旧約聖書の預言の通り、また御使いによって語られた通りのことであった。
アウグストゥスのあの父はジュリアス・シーザー。その息子は全世界を治めたと豪語したいのだろうが、これはまことの父なる神が、すべての造られた人を救う神のご計画を実行するお膳立てをしたに過ぎなかった。
「月が満ちて」マリアが出産したのは、歴史を動かす神の力が働いたからに他ならない。そしてこの神のひとり子こそが、すべてを統べ治め、すべての人に救いとまことの平和をもたらすお方。
万物の創造者であり支配者である神が、愛ゆえに私たち一人ひとりのところに現れてくださった、それがクリスマス。アドベントのこの時、厳粛な思いの中で過ごそう。
パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。(コリント人への手紙第一 10章 17節)
パウロは、コリント教会が「ふさわしくない仕方でパンを食べ」(Ⅰコリント11:27)ていることを避難する。教会での食事会のときに他の人を顧みずに我先にと食べ始め、空腹な人がいる一方で満腹になり酔っ払っている者もいるのだという。イエス様の最後の晩餐での「これはあなたがたのための、わたしのからだです」(24)、「この杯は、わたしの血による新しい契約です」(25)という言葉を引き合いに出して、教会はキリストの一つのからだであることを思い起こさせる。
当時の教会が今日のように食事会と聖餐式を厳密に分けて行っていたかどうかは定かではないが、食事にかかわらずにすべてのことにおいて、私たちはキリストのからだにふさわしいありかたであることが望まれている。
私たち一人ひとりのうちにキリストを豊かに住まわせることができるように、祈ろう。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書 3章 16節)
(詩篇22篇より)
詩篇22篇は、「どうして私をお見捨てになったのですか」という、誰しもが持つ苦悩の叫び。多くの場合、神はその問に対して沈黙なさるが、苦難は信仰者の忍耐、品性、希望を生み出す。
キリストが十字架上でいまわの際に発したのもこの詩篇の冒頭だった。本来ならば自ら神に逆らった私たち人間が発しなければならないこの言葉を代わりに発した神のひとり子キリスト。人のためにいのちを捨てる神の愛がそこに現された。神は私たち人間を見捨てることはないのだ。
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
(ヨハネ10:11)
キリストは、自らを「良い牧者」に例えて話す。ここでの「良い」というのは、この世で優れていることとは全く異なる、霊的な次元での崇高さを含めた表現であろう。キリストは私たち人間をご自分のものとし、ご自分のいのちをも惜しまずに犠牲にして私たちのいのちを救ってくださった。神はほんとうの愛のお方。
また、「囲いに属さない羊」(16)、すなわち神の前にへりくだらずに自分勝手に歩んでいる者、あるいはいろいろな事情で神の交わりに加われない者をも導く使命がキリストにあり、また主を信じる私たちにも期待されていること。
「わたしには、それ(いのち)を捨てる権威があり、再び得る権威があります」(18)というのは、イエス様が十字架に死なれてから三日目によみがえったことばかりだけでなく、キリストのからだである教会すなわちクリスチャン一人ひとりがいのちを豊かに持つことであるとも言える。
私たちがいのちに溢れる主のからだを建て上げるために、キリストはいのちを捨てたのだ。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。(ヨハネの福音書 10:9)
(ヨハネの福音書10章より)
イエス様は、天の御国を羊の囲いに例えて話された。門ではないところを乗り越えて来る者は盗人であり強盗だが、門から入るのは羊たちの牧者であると。キリストは、迷いやすい羊を飼う牧者のように人々を導くお方。羊が羊飼いの声を聞き分けてその声だけに従って行くときに豊かな牧草地に行くことができるように、私たち人間も神の声に従うときに、永遠のいのちを得ることができる。さらに「わたしは羊たちの門です」(7)と、このキリストを通してのみ、私たちは天の御国に入ることができることを語る。キリストのことば。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)。
この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
(ガラテヤ人への手紙 1章5節)
(使徒の働き 12章より)
ヘロデ・アグリッパ一世がツロとシドンの町を快く思っていないことで、そこには食料の供給がなされていなかった。その町の人々が王と和平交渉を始めていた折り、式典が行われ、王が演説を始める。彼らは王に「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた(22)。「すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた。」(23)。
かつてイエス様は、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)としてペテロを厳しく叱った。確かにサタンは「あなたがたが神のようになって」(創世記3:5)と人をそそのかして、人類に死をもたらした。人を高慢に誘う言葉が、人を殺す言葉となったのだ。
私たちは人を祝福し、生かす言葉を語ろう。「God bless you」、「神に栄光があるように」と。
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。(エペソ6:18) (使徒の働き12章より) ヘロデ・アグリッパ一世によって捕らえられ、ヤコブに続き処刑されようとしているペテロ。「教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた」(5)。 処刑の日の前夜、主の使いが牢獄のペテロに現れ、不思議な方法を持って彼を救い出す。「どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」(マタイ18:19)とあるように、教会は 「いつも心を一つにして祈っていた」(2:46,47)のである。実際にペテロが無事に戻ったことを聞いても、それが信じられない教会員であったが、神の助けは人間の考えを遥かに超えている。「すべての聖徒たちに」とあるように、私たちもお互いのために忍耐の限りに祈っていこう。私たちはひとつの「キリストのからだ」(Ⅰコリント12:17)なのだから。
主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。(詩篇
91篇 11節)
(使徒の働き12章より)
ヘロデ・アグリッパ一世によるキリスト者の迫害が激しくなり、ペテロが捕らえられ、いよいよ処刑が翌日に迫った日の晩に、牢獄に天使が現れ、ペテロを起こす。完全な監視下にあったにもかかわらず、鎖は解け扉はひとりでに開き、難を逃れる。幻を見ていると思っていた彼だが、我に返ったときに、これは天からの使いが助けてくださったことを悟る。
天使の存在は、聖書のいたるところで言及されている。神が御使いに命じて私たちを励まし、道を照し、みことばを与え、状況を整えて、導き、守ってくださっている。主の守りに感謝しつつ、歩んでいこう。
アブラムは、神の子孫繁栄の約束の成就を期待しながらも、一向に妊娠の兆しがない妻サライに苛立ちを募らせる。たまりかねたサライは女奴隷ハガルをアブラムに与え、身ごもらせてしまう。するとハガルは、サライを蔑む態度をとるようになり、怒ったサライはハガルを追い出してしまう。
路頭に迷うサライに声をかけたのは、主の使いであった。家に戻るように言いつけるとともに、男子が生まれることを告げ、「その子をイシュマエル(神は聞かれる)と名づけなさい。主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから」(11)と語る。
神は、私たちが嘆き苦しむときにその声を聞いてくださり、いつも私たちの傍らに寄り添ってくださるお方。私たちもまた、人に寄り添い、平和を作っていく者でありたい。
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
(コリント人への手紙 第一11:26)
過ぎ越しの祝いの食事が最後の晩餐となったイエス様。パンを取り、弟子たちに、「これはわたしのからだ」(マタイ26:26)、ぶどう液の杯を取り、「わたしの血」と言ったそのことばの意味を、その直後に逮捕され、十字架で処刑されるイエス様の姿を見て初めて、弟子たちははっきりと知ることができたことであろう。かつてエジプトで神を信じる民の救いのために過ぎ越しの犠牲となった子羊。イエス・キリストがその子羊となり、神を信じるすべての人類の救いとなったのである。
パウロは「主から受けたことを、あなたがたに伝え」(Ⅰコリント11:23)、読者には「あなたがたは…主の死を告げ知らせる」(26)と語る。「主の死」すなわち、その十字架の贖いによってもたらされた「新しい契約」(25)。イエス様の贖いによって与えられる「永遠のいのち」に生き、それを伝える役目が今、私たちに与えられているのである。
主よあなたの御力のゆえにあなたがあがめられますように。
大いなる御力を私たちは歌いほめ歌います。(詩篇21:13)
詩篇21篇において、ダビデは神の偉大な御力をたたえる。それは、人間に喜びを与え楽しみを与え、永遠のいのちを与える御力だという。神は、神を離れて永遠のいのちを失った人間を救うために、神のひとり子を人間の罪の犠牲としてこの世に送った。人を愛し、人を祝福するために、神でしか成し得ない御力をお使いになったのだ。そしてそれは、神から私たちを引き離す闇の力を圧倒的に打ち破る御力でもある。この神の御力にすがり救いにあずかる、喜びと楽しみの生き方が私たちに用意されていることを感謝しつつ、歩んでいこう。
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
(マタイの福音書23:12)
(ヨハネの福音書9章より)
イエスに目を癒やされた男は、イエスに「あなたは人の子を信じますか」「あなたと話しているのが、その人です」と語られ、「主よ、信じます」と、イエスを礼拝した。自身か両親の罪ゆえに盲目に生まれついたと蔑まれてきた男が、イエスに目を開かれて、まことの神を見るようになった。
一方パリサイ人に対しては、「今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります」と断罪する。自らの罪を認めずに外見ばかりを取り繕っても、そこにはまことのいのちに至る道はない。
「砕かれた心」(詩篇51:17)こそが、神が喜ばれるささげものとなる。逆転の救いを与えてくださるイエス様に、ありのままの姿でお任せしていこう。
私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。
(ホセア 6:3)
イエスに目を癒やされた盲人だった男は、パリサイ人たちの、「あの者(イエス)については、どこから来たのか知らない。」(29)
との言葉に驚く。聖書のことならすべてわかっていると豪語する彼らがイエスのことを知らないはずはないと思ったのである。彼は「一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」と、淡々と自分に起きた事実を語る。彼の神を知る知識は、頭で知るよりも体験で得たものであった。
どんなに専門知識を持っていても理屈はわかっていても、実際に行わないとスポーツがうまくならないのと同じように、信仰のない聖書知識にはいのちがない。私たちは、ほんとうのいのちに生きる知識を豊かにしていきたい。
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイの福音書 10章 28節)
(ヨハネの福音書9章より)
「本人に聞いてください」。目が癒やされた事の次第を尋ねられ、盲人の両親がそう答えるしかなかったのは、息子のことばの通りにイエスが癒やしたなどと言おうものなら、家族全員が社会的立場を失うという場面でのこと。何としてでも自らの立場を守ろうとしたパリサイ人たちの圧力の前でのこの言葉を、家族を見放したと単純に責めることはできないのではないか。
私たちクリスチャンは社会の中で自分の信仰者としての立場をどうあらわしていくべきか、問われる場面に遭遇することがある。本当に恐れるべきお方、神を恐れ、その神の御旨をいつも聖書の中に確認しながら歩むことが求められている。いのちの源なる神なる「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせず(ヘブル人 2: 11)」にいてくださる。私たちもこのイエスの福音を恥とせずに歩んでいこう。
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:3)
(ヨハネの福音書9章より)
イエス様は「通りすがりに」(1)生まれつきの盲人をご覧になり、泥をその男の目にに塗り「シロアムの池で洗いなさい」(7)と言いつけると、彼はその言葉通りに行うと目が見えるようになった。
彼の障害の理由を「だれが罪を犯したからですか」と尋ねた弟子に対して、イエス様は「この人に神のわざが現れるため」と説く。目が見えるようになって歩いている彼を見て、人々は本当にあの者なのかと疑うが、彼は、「私がその人です」(10)とイエス様が自分にしてくださったことをそのまま話す。
私たち人間の側からは神に近づけなくても、神のほうから近づいてくださり、私たちは神に出会うことができる。偶然のように見て、それは神様の愛とあわれみのゆえに必然的な出来事。そして、神が私たち一人ひとりにみわざをなしてくださる。そのありのままを語り、この姿を見せていくことが神を証しすることである。私たちを神様の栄光を表す器としてくださるお方に感謝。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネの福音書 13章34節)
(使徒の働き11章より)
アンティオキアで「キリスト者」と呼ばれるようになった者たちは、預言者アガボによって大飢饉が起こることを知りると、エルサレムの協会に向けて「それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた」(29)。
パウロの、「与えられた恵みにしたがって……分け与える人は惜しまずに分け与え」(ローマ人12:6~8)という言葉を実践していたと言える。私たちも、聖霊の促しにより「自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵み」(コリント人への手紙第二 8章 2〜4節)に与る者、「愛し合う者」として歩む者とさせていただこう。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 (箴言3章6節)
(創世記 15章より)
子孫を与えると同時に土地を与えるという神様の約束のことばになおも確信を持てないでいるアブラムに、神は一つのしるしを見せる。アブラムが主の前に、牛、山羊、羊、鳥をほふり供えると、その真っ二つに分けられた間を煙の立つかまどと、燃えているたいまつが進んで行った。このことは、キリストがほふられた子羊となって十字架においてその身を裂かれたことを信じる者に、神の赦しと恵みが注がれる福音の預言となっている。自らのうちに主の通られる道をまっすぐにする者のうちに、主が通られ、人生の道をまっすぐにすることができる。
紅海を2つに分けて民を新しい地へ進ませた神が、今、キリストによって私たちの人生の道をまっすぐに開いてくださるのだ。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
(ローマ人の手紙 第一 10章10節)
(創世記15章より)
神は幻のうちにアブラムに臨み、祝福の言葉をかけるが、彼は、かつての子孫繁栄の約束が果たされないままである不満を神にぶつける。自身が老いて子を持つことがかなわない状況であり、しもべの一人があとを継ぐことになることに甘んじる覚悟を吐露する。しかし神は、「天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい」「あなたの子孫は、このようになる」(5)と語る。アブラムの頭上には、満天の星。人間の考えが及ばないものを創造する、神の力あるみわざが見せつけられる。そこで、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(6)。神のみわざを仰ぐ時、人はその威光にただただ圧倒され、神の真実を信じざるをえない。そして神はその「信仰」を義とみなしてくださる。この一方的な神の恵みに我々人間は感謝に耐えない。
私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。(Ⅰコリント11:1)
一見傲慢だとも捉えられてしまいがちなパウロのことばだが、しかし彼は、自身のことをこう告白している。「私は罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)。「私はほんとうにみじめな人間です」(ローマ7:24)。
自分自身を自らの力で制御できないという、無力感、絶望感に苛まれていたパウロ。そんな彼が、どうして自分を見習うように、と言うことができたのか。それはコリント教会の人々が」「キリストに倣っている」というその姿勢・生き方において自分を見習ってほしいという願いをもって語られたのではないか。
「自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求め」(Ⅰコリント10:24)、「人が自分の友のためにいのちを捨てる」(ヨハネ15:13)……その姿はキリストのうちに見られるもの。だからパウロも「すべて神の栄光を現すために」自分の意見や立場に固執することよりも相手をつまずかせない道を選んでいくと語る。
キリストに倣うときに、私たちは、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」(Ⅱコリント3:18)いく。神の栄光を現す者となるように、神のみわざがこの身にあらわされることを期待していこう。
私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。(ヨハネの手紙第一 2:1)
詩篇20篇では、人のために神さまの祝福を祈る「とりなしの祈り」がささげられている。
神は、私たち人間が苦難の時に上げる神への叫びに答えてくださるお方(1)であり、「ヤコブの神」とあるように、ずっと昔から人間に関わり、寄り添ってくださるお方(2)。そして、「聖所」「シオン」という神の顕現の場所は、ご自身を人間にあらわしてくださるお方(3)であることを示している。今は、キリストを信じる私たち自身が「御霊によって神の御住まい」(エペソ人2:22)とされているので、私たちはこの神にいつでもどこでも祈ることができる。
そして、キリストがいつも私たちのためにとりなしの祈りをささげておられるように(ローマ8:34)、私たちも人のために祝福を祈る者として歩んでいくことができる。キリストに倣って、私たちの存在を「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」(ローマ12:1)として神にささげて行きたい。
あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。(ヘブル人 10:34 )
(創世記14章より)
財産や家畜が増えて、叔父のアブラムと一緒に生活するのが難しくなったロトは、見るからに肥沃で麗しいソドムとゴモラの地方を選択し移り住む。しかしその土地が外国からの襲撃により、財産はすべて略奪され、ロト自身も連れ去られてしまう。ロトは「自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ」(14:11)のだが、「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです」(ルカ12:21)という、イエスのたとえ話のような結末になってしまう。
私たちは、移ろいやすく、やがて朽ちていく地上の財産に心を奪われるの出なく、「自分のために、天に宝を蓄えなさい」(マタイ6:20)というイエスのことばに従い神の前に富むものとして歩みたい。「あなたがたが新しく生まれたのは、…生きた、いつまでも残る、神のことばによる」(Ⅰペテロ 1:23)とあるように、この永遠に変わらない「キリストにある豊かないのち」という財産を持つことこそ、本当の喜びに生きることなのだ。
神から出た者は、神のことばに聞き従います。(ヨハネの福音書8:47)
イエスはご自分のことを「わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります」(8:28)と、かつて神がモーセにご自身のお名前を明かされたその名をもって、イエスご自身が父なる神から遣わされたことをユダヤ人に語る。しかし、彼らは悟らない。その理由を「わたしのことばに聞き従うことができないから」(33)であるとし、さらに、「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思ってい」(44)ると、糾弾する。聖書に精通していても、まことの神を父としないで、「偽りの父」(44)である悪魔を父としていると、真理を悟ることはできない。
わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっている」(15:10)というイエスのことばのとおり、まことの神を父とし、そのみことばにとどまるときに、私たちは「喜びで満ちあふれる」(11)人生を歩むことができる。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。(コロサイ3:16)
(使徒の働き10章より)
コルネリオの家に招かれたペテロが説教をかたっていると、「みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った」(44)。
ペテロは「異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた」(45)が、それは、「彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたから」(46)だという。ここでの異言は外国のことばで神のことばを語ること。神のことばの前にひれ伏し、聞き従う者に、神は聖霊を下し、神のことば、証しを語らせ、神を賛美する特権を与えられる。
私たち異邦人を通して、神の国が広がっていくことを、感謝しよう。
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。
(使徒10:39)
異邦人コルネリオの家族・親族・友人の前で語るペテロ。イザヤ書に預言されているバプテスマのヨハネが宣べ伝えたのは、イエスのことであり、「神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれ」(使徒10:38)、つまり一切の権威をお授けになったこと。そして、ペンテコステの時に聖霊が注がれた者たちが「選ばれた証人」(41)として、イエスがさばき主であり、その御名を信じることにより罪が赦されることを証ししていると語る。
そして、このことばを聞いていた者たち皆に聖霊が降り、異邦人に福音が開かれていく。
私たちは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」というパウロのことばのごとく、聖霊によってイエスのいのちち生き、イエスの証人として歩むことができる。
愛は多くの罪をおおうからです。(Ⅰペテロ 4: 8)
天地創造のはじめ、最初の人アダムの助け手としてアダムの体の一部から造られたパートナーをを「女と名づけ」(創世記 2:23)た。その後、彼はその「妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった」(創世記 3:20)。
「エバ」とは、アダムが「いのち」「生きるもの」を意味する。土くれという意味の「アダム」が、罪のゆえに永遠に生きることがなくなりはちりに帰る存在となったが、すべての人類のいのちの母となる妻を称えての呼び名であろう。
やがて神は、罪の恥を木の葉で覆っていた「アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」(創世記3:21)。ここには神の人に対する深い愛と憐れみが表されている。皮の衣は、動物のいのちが犠牲となっている。これは、やがて人の罪をおおう子羊キリストの贖いのみわざ予型ともいえる。罪人をどこまでも愛し、ご自分のひとり子をさえ犠牲にしていのちを与えようとする神の愛がキリストによって表された。だからパウロは言う。「主イエス・キリストを着なさい。」(ローマ 13:14)。キリストを着ることによって、私たちは本当のいのちの道を歩むことができる。
母の日、私たちは、自分を生んでくれた母親に感謝するとともに、はじめにいのちを与えてくださった神、そして、いのちを失った人間をご自分のいのちを捨てて生きるものとしてくださった「本当に生きるものすべての母」となってくださったキリストの愛に感謝する時としたい。
「立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
(創世記13:17)
かつては神のことばを後回しにしてエジプトに移ったばかりか、保身のため妻のサライを妹だと偽りエジプトの王と妻として差し出して、多くの財産を手に入れアブラム。しかし、そこで挫折を味わい、再び神のことばに立ち返り、神が示したカナンに残った。そのアブラムに神が語りかける。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。」
神に立ち返ったときに、神が新しく見せてくださるものがある。ロトは目に見えるものだけに心を動かして滅びの土地を選び取っていったが、私たちは、アブラムのように、神が霊において見せてくださる場所を選び取っていこう。そして、地のちりや空の星を数えることができないように、人智を遥かに超えた、圧倒的な数、広がりがそこにはある。それが神が与えて下さる、天のあらゆる祝福に満ちた麗しき相続地。
それからアブラムは、マムレの樫の木の場所を生活の拠点としそこに祭壇を築いた。つまり生活の中心に神を置き力強く歩んでいく。神がアブラムに与えた相続は、神を信じるものに与えられる天の御国の予型とも言える。私たちも自分の生活の場に神様を認め神を礼拝していくときに、神様は天からの祝福を見せてくださる。その麗しい相続地を頂いているそのことを感謝しつつ、この世にその祝福を表す存在として歩んでいくことができる。
キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。"
(ピリピ人 3:14)
(創世記13章より)
神のことばに従いカナンの地まで来たアブラムとそと家族だが、そこで飢饉に見舞われエジプトに移り、妻を妹だと偽りエジプト王の妻として差し出してしまう。そのことが明らかになりエジプトを追い出されたアブラムたちは、再びカナンの最初に天幕を張った場所に戻り、「そこで主の御名を呼び求めた」(4)。
神はいつでも両手を広げて、神を離れて挫折した私たちが再び神のもとに立ち返るのを待っていてくださる。
アブラムの牧者とおいのロトの牧者との間に争いが起こり、アブラムはロトとの訣別を切り出す。ロトに土地を選ばせると、ロトは、やがて神のさばきによって滅ぼされるソドムとゴモラのある「ヨルダンの低地全体を選んだ」(11)。それはロトの今後を暗示するかのようであった
しかし、この時のアブラハムは、地上だけではなく、「天上にあるすべての霊的祝福」(エペソ人1:3)に満ちたまことの相続地を見据えていた。
わたしたちもこの「上」を目指して地上を歩んで行こう。
人その一生は草のよう。人は咲く。野の花のように。(詩篇103:15)
身近な自然に目を留めたときに、私たちは心が慰められ、癒やされ、励まされたりする。自由に飛び回る鳥も、道端の小さな野の花も、神によって実に見事に装い美しさを誇っている。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださる」(マタイ6:26)「野の草さえ、神はこれほどに装ってくださる」(マタイ6:30)というのは、神が人間をもっとあわれまないだろうかというイエス様の教えだ。
「人は咲く」と詩人は歌う。人に認められようと、一花咲かせてやろうと人は努力するが、その前に神は私たち一人ひとりを咲いている花としてご覧になっている。「わたしはあなたの名を呼んだ」(イザヤ43:1)とあるように、「主は私たちの成り立ちを知り」(詩篇130:14)、認め、愛して下さるお方である。
主が私たちに目を留め、愛でて、喜んでくださることは何という幸いであろうか。主のいのちを輝かせて生きる者でありたい。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)
コリント人への手紙第一10章より
パウロは、旧約聖書の民の失敗から、偶像崇拝者となってはならないことを強く語る。彼らは、姦淫を師、主を試み、主に不平不満をつぶやいたことにより、多くの者がいのちを落とした。これらのことは、「11,これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(11)であるとパウロは語る。これらの根っこにあるのは、人の心に巣食う、神を神と認めない心、すなわちそれは偶像礼拝なのである。だから十戒のはじめには、「あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト2:3)と教えられている。
神は、「試練とともに脱出の道も備えて」くださる。誘惑や試練から逃げる、遠ざかるべき時がある。そしてすべては神の手のうちにあることを思い、最後の勝利、すなわち天の御国に行くことを目指して、私たちは歩んでいこう。
みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(Ⅰコリント10:4)
党派心を抱き、派閥争いが絶えない問題の多いコリント教会にへの叱責の言葉を連ねてきたパウロは、この10章では、新しくやり直すようにという励ましの言葉を語る。
「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。」(Ⅰコリント10:1)
これは、神の民イスラエル民族がエジプトでの奴隷生活から指導者モーセを通して!雲の柱、火の柱をもって民を導き、紅海を分けて民のいのちを救ったことを思い起こさせる。
そして、「彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです」(4)と、モーセが打って水が出た岩を、十字架で打たれ、そこから私たちへのいのちが流れ出したキリストのひながたと説く。
ここまで真実の愛を表してくださった、いのちの源である「岩なるイエス」の御霊によって歩むことを新年度のことばとして受け止めていきたい。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
イエスは十字架に掛かる前に弟子たちに遺言ともいうべき話を語る。人間に御霊という賜物を与えるために、そのいのちをもって代価を支払い、私たちの喜びが満ちるために、その産みの苦しみとなったキリスト・イエス。
そしてその遺言は、私たちが平安を持つための話であるとイエスは語る。「平安」は原語では安らかで平穏無事な状態であるというよりも、和解し、折り合う、合わさる、といった積極的な動的な意味合いを持つ。キリストは、憎しみのあるところに愛を生じさせ、隔ての壁を打ち壊し一つにする力を持つ。
さらに「わたしはすでに世に勝った」と、勝利の宣言をする。罪の縄目、死の力をも打ち破り、よみがえってくださった神の独り子イエス。その名を信じた者にも、同じ永遠の命が与えられることが聖書に約束されている。私たちは世にあっては艱難があるが、勇敢に進んでいける。イエスの御霊が今、ともにいてくださるからだ。
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(ヨハネ16:22)
(ヨハネの福音書16章より)
イエスはご自身がこの世を去るのは、人々に喜びが満たされるための産みの苦しみなのだと説く。そして、「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20)と、私たちのこの世での悲しみは、やがて喜びに変わり、その喜びは、誰にも奪い去られるようなものではないという(22)。
「わたしはもう一度あなたがたに会います」(22)というのは、復活したイエスに弟子たちが会う時ばかりでなく、やがて新天新地の創造の時、昇天したイエスが再び地上に現れる時のこととも言える。その時は、パウロが言うように、主と「顔と顔とを合わせて見ることになり」「私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知る」(Ⅰコリント13:12)ことになる。
ダビデは歌う。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30:5)。イエスの御霊が今、私たちのうちに宿り、その喜びの前味を味わうことができる。このための産みの苦しみを、地上に降り、十字架の死を通して味わってくださったイエス様に心から感謝したい。
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。(ヨエル 2:29)
(ヨハネの福音書16章より)
イエスは、十字架にかかる前に弟子たちに遺言を遺す。それは、人々に御霊を与えるために、この世を去っていくというものであった。
御霊についてイエスは、「その方(御霊)が来ると、罪について、……世にその誤りを認めさせ」(8)、「御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れ」(13)、「御霊はわたしの栄光を現し」(14)と話す。
この御霊という贈り物を与えるために、イエス様はご自身のいのちという代価を支払ってくださった。犯した大きな罪を悔いたダビデが、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩篇51:10)と祈ったように、この御霊という贈り物を頂いた今、私たちは「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着」(エペソ4:23,24)て歩むことができる。
「神が遣わした者を信じること、それが神のわざ」(ヨハネ6:29)なのである。
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(詩篇19:7,8)
ダビデは主から発せられるみことばを「みおしえ」「あかし」「戒め」「仰せ」と表現し、それが私たち人間にどう影響を与えるかを歌う。
1.「たましいを生き返らせ」。この世にたくさんの教えはあっても、人のたましいにいのちを与えることができるのは、主のことばだけである。
2.「わきまえのない者を賢くする」。「私は、おろかで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした」(詩篇73:22)と告白したダビデが、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのないものに悟りを与えます」(詩篇119:130)とあかししているように、主のことばによって私たちは本当の分別を得ることができる。
3.「人の心を喜ばせ」。いつも私たちをどこまでも愛し、守ってくださる主のことばによって、生活の中で、心が乱される出来事に遭遇しても、心の奥底には、揺るがない喜びがある。
4.「人の目を明るくする」。みことばは、私たちのいのちを照らし、人生の道を照らす。だから、「純金よりも好ましい」「蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」と、この世の何者よりも価値があるとダビデは語る。
このいつもみことばに触れ、みことばを心に蓄え、このみ言葉に生きて行こう。
みことばによって、私たちは、明るく、豊かに歩むことができる。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネ 8:36)
イエス様が語った「わたしのことばにとどまるなら、……真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネの福音書8:31,32)ということばに、ユダヤ人たちは、「決してだれの奴隷になったこともありません」と反発する。しかしイエス様は断言する。「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(34)。そして、「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」と、神の御子であるご自身が人を罪の支配から開放する力と権威を持っていることを明言する。さらに「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。」と、イエス様の贖いのわざを信じて神の子としての身分とされた者が御国を相続することができることを語る。
「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。」(39)とのことばは、私たちに、信仰によって義と認められ、神を信頼して歩むように促している。イエスが「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(ヨハネ6:29)と語られたように、私たちがほんとうの自由の中でその神のわざをなして歩む姿を、神は喜ばれる。
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。(使徒1:36)
(使徒10章より)
コルネリオが祈っている時に、御使いが現れ、ペテロを招くように告げる。彼はそのことばに従い、ペテロのもとに使いを送る。
一方、神はペテロにも幻であらゆる動物が入った大きな入れ物を見せ、「食べなさい」と命じる。きよくない動物もいることを見て戸惑っているペテロに、「神がきよいといっているものをきよくないと言ってはならない」と語る。この幻によってペテロは神様は人を別け隔てしないお方だということを悟る。
ちょうどその時、コルネリオの使いがペテロのもとを訪ねてくる。ペテロはその時聞こえた聖霊の声に押し出されるようにして、それまでユダヤ人が親しくすることのなかったローマ人であるコルネリオの家に向かうことにする。
コルネリオの家では、彼の家族、親族、友人が集まり、まことの神を敬拝しているのを目の当たりにしたペテロは、キリストのあがないの血はすべての者をきよめる力があり、そのことを信じる者はすべて救われることを悟る。このコルネリオとペテロの出会いが、福音が全世界に広がるきっかけとなる。
神のことばに従い、神からのビジョンをいだきつつ、聖霊に押し出されて行く時に、私たちも神のみわざをみることができる。「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ」(Ⅰテモテ2:4)る神の心をわが心として歩みたい。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
(ヘブル12:11)
神のことばに従い、意気揚々とカナンの地まで旅を続けてきたアブラムだが、その地がひどい飢饉に見舞われると、エジプトに移っていく。
妻サライの美しさのゆえ、夫である自分自身はエジプト人に殺されてしまうという恐怖に駆られたアブラムは、妻に妹だと名乗るように依頼する。そして、サライを見初めたエジプトのパロが、サライを妻として宮廷に召し入れることを許してしまう。サライの兄だということでパロはアブラムに多くの家畜や奴隷を与え、アブラムは裕福になっていく。
しかし、その胸中はいかばかりであったろうか。パロは、家を襲う災の原因を調べていくうちに、サライがアブラムの妻であることを知り、彼らをエジプトから追い出してしまう。
アブラムは、自分の保身だけを優先させ、神の声に従うこと、妻を守ることをを忘れてしまった。このことは彼にとっての挫折となり、神からの叱責ともなった。しかし、このような惨めな経験を通して、彼は神に練られ、成長していき、やがては「信仰の父」とまで呼ばれるようになる。
私たちが大きな挫折を味わっても、成長のために、立ち上がることを、神は期待しておられる。
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ人 3:14)
Ⅰコリント9章で、パウロはこの世のアスリートたちの姿を見習って永遠の栄誉を得るように走ることを教えているが、ピリピ教会に向けても、パウロ自身が「目標を目ざして一心に走っているのです」とはっきりと証ししている。
ユダヤ人のエリートとして育ち、新進気鋭の宗教家として注目を浴びていたパウロだが、キリストと出会うことによって、価値観が一変する。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて」(ピリピ3:8)、「キリストを得る」ことこそが、人生で最も価値あることだと悟ることとなる。「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださった」(9)と、キリストの一方的な救いの恵み、神から与えられた神の子としての立場にふさわしくありたいと切なる願いを語っている。パウロが「ただ、この一事に励んで」(13)いるその目標は、「ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」(21)ことなのである。この一時に励んで歩もう。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」(Ⅰコリント9:24)
古代オリンピックに湧くギリシャの都市コリント。パウロはコリント教会の人々に、信仰生活を競技に例えて語る。アスリートが賞を獲得するために、努力・精進するように、信仰者も、神が用意してくださっている天の祝福を逃すことがないように、絶えず注意することが必要なのだ。
「彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(25)と、この世の有限な栄誉を勝ち取るために彼らがあれほどストイックに自分自身を鍛え、磨き上げているのに、神が用意してくださっている永遠の栄誉を受け取ろうとせずに、緊張感なくぬるく過ごしているコリント教会の人々に対しての、パウロの嘆きとやるせないさ、もどかしさというものが伝わってくるようだ。
「私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているから」(Ⅱコリント11:2)であると、パウロは自身の気持ちを告白する。神が熱心に私たちを天の御国まで導こうとしておられ、その熱心が、独り子イエス・キリストをこの世に送り、十字架につけた。
私たちは目標から目をそらそうとするサタンの声にも惑わされることなく、「右にも左にもそれてはならない」(申命5:32)との教え通り、栄冠の獲得を目指して神の道をまっすぐに進んでいこう。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)
(詩篇19篇より)
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(1)と、天を見上げる時、被造物がまるで神を賛美し、神を語っているようだと詩人は歌う。私たちは、天地万物の創造者である偉大な神に人生を委ねて歩むことができることは何と幸いであろうか。
さらに、「太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る」(5)と、太陽までが花婿のように喜んでいるようだと語る。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」(創世記1:31)と、神は私たちの存在をを喜ばれ、私たちもまた神を喜ぶ、「喜びの関係」が、そこにはある。
そして、かつては罪のために神のかたちを損ねた私たちだが、今はキリストの贖いのわざによって、信じるものは、神の栄光を表す者となる。
私たちは、神がすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださることを喜びながら、神の栄光を語り告げる者として歩んでいこう。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)
イエスは「わたしが来たのは上から」と、自らを天の神のみもとから来たものであることを明言する。「わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」(ヨハネ8:24)と、イエスこそがほんとうのいのちへの道であることを語る。それを聞いていたユダヤ人たちは、「あなたはだれですか。」(25)と問うが、イエスは、それこそが初めから語っている内容であるという。イエスこそが救い主であることを、神がずっと人間に対しみことばをもって指し示してきた。人間が死からいのちへと移ってほしいという神の熱い願いがそこにはある。
そしてイエスは、ペテロに問うたように、私たちに「あなたはわたしを誰だとい言いますか」(マタイ16:15)と問うている。私たちは、このイエスを誰だと告白するだろうか。イエス様は今日も、あなたの告白を待っている。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)
神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。(使徒10:15)
ある日の昼間、ペテロは夢心地になり幻を見る。天が開けて、すべての種類の動物が入った敷布が吊るされ、降りてくる。天からの「さあ、ほふって食べなさい」(使徒10:13)という声に、その動物の中に「きよくない」「汚れている」ものがいるという理由で、ペテロは「主よ。それはできません」(14)と答える。すると「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」(15)という声があり、入れ物は天に引き上げられる。ペテロはこの幻を続けて3回見ることとなる。
神が天地創造のみわざ完成された時、それを見て「非常に良かった」(創世記1:31)と満足された。人が神に背いたことにによって人は罪人となり、死ぬものとなったが、神のひとり子キリストの十字架のあがないのみわざにより、キリストを信じる者はすべて、神の前にきよいものとされる。
罪に苦しみあえぐ人類を見て、「だれを遣わそう」という父なる神のことばに、キリストは、「それはできません」とは言わずに、「私を遣わしてください」(イザヤ6:8)とこの地上に降りて来られたのである。キリストを遣わした神は、私たちをも遣わし、救いのみわざをあらわそうとなさっている。
アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。(創世記12:7)
「あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(12:1)という神からの声に、アブラムは妻やおいなどを引き連れてカナンに向けて出発した。生活の保障や異教文化への移住という不安や葛藤を抱えながらも旅を続け、カナン人が住む地、シェケムのモレの樫の木のところまで来たとき、主がアブラムに現れ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられ、アブラムはそこに祭壇を築いた。
私たちが孤立無援の状態、弱さに打ちひしがれるような時も、主はともにいてくださる。私たちはどんな時も、そこに主の臨在があるを認めて、御力が現されるように祈りつつ歩みたい。
詩篇では「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。あなた(神)の腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです」(詩篇44:3)と歌われている。主の愛のうちに、今年も神の家族と手を取り合って進んでいこう。
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。(詩篇40:3)
御使いから、妻エリサベツに男の子が生まれ、多くのものを神に立ち返らせる役目を負う者となることを告げられる。夫婦とも歳を取っているとして、そのことばを信じられずにいたザカリヤは、話せないようになってしまう。
敬虔な者としての評判を落とし、話せなくなったことで長く続けてきた奉仕からも外れるようになったかもしれないザカリヤは、神と一対一の対話の時を過ごすことになる。神に打たれるような挫折の時を通して、神はザカリヤを取り扱う。この期間、彼は自分の惨めさと同時に神の偉大さを思い知ることになる。
妻が身ごもり、やがて男のことを出産したとき、ザカリヤはその子の名前を御使いのことばどおり「ヨハネ」と名付けることを明示する。「すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」(ルカ1:64)。彼が再び話せるようになった時に口から出たのは、神への賛美だった。そして、「これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った」(65)のである。
神が私たち一人ひとりを取り扱い、私たちの口に賛美を授け、神の栄光を表す者としてくださる。この身をとおして、主のわざが現される。
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(Ⅰヨハネ 3:16)
キリスト教のシンボルといえる「十字架。それは、私たち一人ひとりの罪、重荷をすべて神が負って身代わりに死に、そこに神の愛が表されたから。神であるキリストは、まさに「死ぬために」この世に人間として生まれてくださった。だからクリスマスは、神の愛の前に厳粛に過ごすひとときであり、まことの神を信じるということは、その神の愛を知り、頂き、感謝しつつ歩むこと。
私たちのためにご自分のいのちを投げ出したキリスト。「それによって私たちに愛がわかった」と福音書は言う。私たちは、愛の根源である神から愛を頂き、神を愛し、人を愛する者として、歩むことができる。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6)
パウロは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」(Ⅰコリント9:19 )と、多くの人のたましいをキリストのもとに連れて行くために、私はすべての人に仕えると語っている。
そしてそれは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように」(20)、 律法を持たない人々(異邦人)に対しては、……律法を持たない者のように」(21)、「 弱い人々には、弱い者に」(22)というように、それぞれの人の心に寄り添うことであった。
これはキリストのうちに見られる姿。「キリストは神の御姿である方なのに…ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ」(ピリピ2:6)たのである。パウロは、この「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)という確信を持っていた。
神は、私たち一人ひとりのところに来て寄り添ってくださるお方なのである。
主は生きておられる。 ほむべきかな。わが岩。 あがむべきかな。わが救いの神。
(詩篇18:46)
詩篇の作者は、「主は生きておられる」(18:46)と語る。神を「わが岩」と例え、人生の濁流の中でもこのお方にすがっていれば、流されることはないと語る。そして神は「私の敵から私を助け出される方」(48)。このお方がいつも私の味方となり、私を救い出される。そして、「ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施される」(50)。ダビデの信仰を受け継いでいる者が「ダビデのすえ」であり、今主を信じている私たちに、神様は恵みを施してくださる。そしてダビデの子孫、イエス・キリストこそが、「油注がれた者」すなわちメシアであり、まことの王、王の王、主の主である。その誕生は長い間待たれ、誕生後二千年を過ぎてもなお、世界中で祝われている。
神のことばは真実であり約束を違えることはない。神こそが、その御名を讃えられ、ほめ歌われるべきお方なのだ。
「私は、国々の中であなたをほめたたえ、 あなたの御名を、ほめ歌います」(49)。
わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)
イエスは自身を「世の光」であるとあかししている。「世」は私たち人間の世界のことで、すべての人は罪を犯していて、その人生はまるで暗闇の中を歩んでいるようなもの。キリストはその私たちの心を照らし、生きる目的を明らかにし、進むべき道を照らし、希望の光を示してくださる。
そしてイエスは、「わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます」と、この証言については自身だけでなく、父なる神もあかししている確かなものであることを語る。私たちは人間の判断によることばか、神のことばのどちらを信じるかで、人生は変わってくる。
このキリストをお迎えするところに、キリストの光が差す。家庭、学校、職場に、あらゆる人間関係にキリストの光が灯る。人生にキリストをお迎えしよう。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来た。イエスを罠にかけようと、律法にって石打ちの刑にするか尋ねる。彼らは人にいのちを与えるための神の教えと、一人の女性を人を殺すための道具としていたといえる。
いよいよイエスを追い詰めたと思った時、思いもかけない答えが帰ってくる。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)。すると、年長者たちから始めて、ひとりひとりその場を離れ、出て行き、イエスと女がそこに残された。自身を省みた時に、自分の罪を棚に上げて彼女をさばくことができる者はいなかったのである。イエスは女に語りかける。「わたしもあなたを罪に定めない」(11)。
これは神のひとり子である自身がすべての人の罪を背負い十字架で贖いを成し遂げるからこそのことば。贖いのみわざが完全であるからこそ、私たちは罪を後にして新しく歩むことができる。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (Ⅱコリ5:17)
キリストのうちにあるとき、私たちの内面は新しく造り変えられる。第1に、きよめられる。「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ書1章18節)とあるように、どんな汚れもきよくしてくださる。第2に、新しいいのちを得る。イエスこそが「道であり、真理であり、いのち」(ヨハネ14:6)である。第3に、子としての立場が与えられる。「その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:]12)のである。第4に、実を結ぶことができる。「人がわたし(キリスト)にとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結」(ヨハネ15:5)ぶ。そして、第5に、神に喜ばれる供え物となることができる。パウロは、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)と語っている。神が新しい自分に出会わせてくださることを期待していこう。
あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。(使徒10:4)
ローマの百人隊長コルネリオはが午後三時の祈りをしていると、幻の中で、ヨッパにいるペテロを招くようにという御使いの声を聞く。この言葉に従ってペテロを家に招いたコルネリオによって、キリスト教に新たな展開が始まっていく。
コルネリオは「敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」(2)。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って」(4)とあるように、祈りが神への香のささげ物となる。「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った」(黙示録8:4)。
彼の敬虔さは家族にも、そして部下にも広がっていた。その神を畏れ敬う心に、神様は目を留め、彼を福音の新たに展開していくキーマンとし用いたのではないか。
私たちはいつも、祈りという香を神様の前に立ち上らせ、ささげていこう。神様が用いやすい経験な者となるよう、神に願っていこう。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記12:3)
神がすべての民族を祝福するという計画はアブラムに語られる。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(12:1)。偶像の製造販売をなりわいとしている父の家から出て、神が示す地へ行くように命じる。
そして神は、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたの名を大いなるものとしよう」(2)と語る。人間は自分の知識や能力や権力によって名声を得ようとするが、本当に人間を大いなる豊かな者とすることができるのは神だけである。
妻は「不妊の女」と呼ばれ、自身も75歳であったアブラムにとって、子孫が繁栄し一つの国民となるという約束は理解できないことばではあったろう。にもかかわらず彼は神のことばに従い、旅立っていった。それで今、すべての民族に、日本人にも祝福が用意されている。
私たちにも神が示す地へと踏み出すように語られる。神のことばに従ったときに、神様は私たちをとおして、祝福を多くの人に引き継がせてくださる。神様のことばは必ず成就する。
私はすべてのことを、福音のためにしています。(Ⅰコリント9:23 )
パウロを使徒とは認めず、その行動を制限する態度を見せるコリント教会の人々に、パウロは、働きの実であるあなたがたこそが私が使徒であることの証印であると語る(Ⅰコリント9:1)。
さらに、パウロの生活を支えようとしない教会に対し、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」というモーセの律法を引用し、御霊のものを蒔いたのであれば、物質的なものを刈り取ることは行き過ぎなのか(11)と、非難する。
しかし、そのような不当な扱いにもかかわらず、「私たちはこの権利を用いませんでした。…それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです」(12)と、パウロは福音のためなら、権利を放棄することも厭わなかった。彼は、福音のためになるかならないかを、行動の判断基準としていた。
私たちは福音のために何をし、何を捨てられるだろうか。
神、その道は完全。
主のみことばは純粋。
主はすべて彼に身を避ける者の盾。
(詩篇18:30)
私たちが人生の道を歩んでいくときに、完全な道は、「神、その道」であると、ダビデは語る。これは神が備え、示し、導いてくださる道。
そして「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)とあるように、私たちがまことのいのちを得るために、神であるキリストが、人間に踏まれる道となってくださった。ダビデはこのことを預言するかのように「あなたの謙遜は、私を大きくされます」(詩篇18:35)と歌う。
「これが道だ。これに歩め」(イザヤ30:21)という神の招きの声に応えていこう。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
(マタイの福音書 16章15,16節)
仮庵の祭りが佳境を迎えた時、イエスは大声で群衆に語る。「わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)「生ける水の川が流れ出るようになる」(38)。
このことばを聞いて、群衆の中には様々な反応が起こった。「あの方は、確かにあの預言者なのだ」「この方はキリストだ」「キリストはガリラヤからは出ないだろう」。イエスを捕らえなかったことで祭司長、律法学者になじられた役人は、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と驚嘆している。「議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか」と言ったのはパリサイ人。
いくら聖書に精通しても、頑なな心の状態では、神の子を目の前にしてもメシヤとはわからない。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(詩篇119:130)とあるように、みことばに心照らされた時に、聖書全体が指し示しているキリストを知ることができる。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(マタイ16:15)というイエスの問いに、ペテロは、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えた。人が何と言っているかではなく、自分自身がイエスをだれだと言うのか、イエス・キリストは今も私たちに問いかける。イエス様をまことの神と認め、イエス様のもとに行き、神の救いを受けるように、今、神は私たちを招いてくださっている。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)
仮庵の祭りが最高潮を迎えたときに、イエスは群衆の前で大声で語る。「わたしを信じる者は、……その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)。イエスを信じて、人はそのたましいを潤される。イエスが死人を生き返らせたように、この水は、人の人生を死からいのちへと移す力がある。そして、イエスがサマリヤの井戸でひとりの女に語られたように、この水は決して渇くことがない。キリストを信じたときに、この世の有限のものとは違う、天からの無限で永遠の祝福を頂けるとは、何と感謝なことだろうか。ダビデは神に、「いのちの泉はあなたにあり」(詩篇36:9)と歌った。ひたすら、神からのいのちの水を求めていこう。さらにこの祝福は、私たちを潤し、私たちのうちにとどまらずに、「流れ出るようになる」。神からのいのちの水が、私たちを通して、周りの人を潤すことができるとは、何という幸いであろうか。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 (ヨハネの福音書 5章24節)
使徒の働きの9章では、まるでイエスのように病人をいやし、死人を蘇らせたペテロの記事が記されている。ルダに住む8年間も寝たきりの男アイネヤには、「立ち上がりなさい」と言い、ヨッパでは病死した主の弟子、タビタという女性に「起きなさい」ということばをかけ、それぞれ立ち上がらせる。それを見て、ルダの人々は、「主に立ち返った」(35)。ヨッパでは、「多くの人々が主を信じた」(42)。
私たちが意気消沈し、立ち上がれないような時、絶望する時、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言われた主の力がそこにあらわされる。
イエス様が「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」(ヨハネ11:4 )と盲人を癒やしたように、私たちの弱さが、神の栄光をあらわす器としてもちいられる。このイエス様の復活のいのちに生き、このいのちを伝えるところに、神の栄光があらわされていく。
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです(ガラテヤ3:8)
救済史においてのもっとも重要な人物、アブラハムが生まれたときの系図が創世記11章に記されている。アブラハムの父はテラで、彼は「ほかの神々に仕えて」(ヨシュア24:2)いて、偶像の製造販売をなりわいとして、莫大な罪を手にしたと言われている。しかし、神はこのテラから生まれたアブラハムを選び、不妊の女サラを妻として与え、神の祝福を受け継ぐ者としていく。
私たちの環境や持ち物、才能、人間の思いを遥かに超えて、神のことばは必ずなる。私たちに「わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与える」(エレミヤ29:11)という神の約束は、神に選ばれ神のことばを信じそれに従った者を通して成されていく。
異邦人である私たちも、信仰によって「祝福の系図」に名が記され、神の祝福を受け継いでいく者として歩むことができる。福音を携えていこう。
「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)
(ルカ6:1-9より)
ある金持ちの金の管理人が使い込みをしてしまったことが主人に知られたので、主人の債務者たちの証文を安く書き換え貸しを作り、解雇された時に助けてもらおうとした。それを知った主人は、管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。というイエスの例え話。
ご自分を律法から外れた「不正な者」とさばくパリサイ人・律法学者の前で、イエスは皮肉のように、「不正の富で、自分のために友を作れ」と語る。罪人をさばくのが律法の正しさだが、イエスは「世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるため」 (ヨハネ3:17)にこの世に遣わされてきた。誰に「馬鹿げた」「愚かな」「不条理な」ことだと言われようが、律法を超えた神の愛と赦しがそこにある。
「やられたらやり返す」というのがこの世のルールであるかも知れないが、キリストは、「むしろ不正をも甘んじて受け」( 1コリント6:7)、「ののしられても、ののしり返さず(ペテロ第一 2:23)、私たち罪人を愛し赦してくださった。受ける資格のない者に与えられた、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」(ルカ16:9)とあるように、まさしく「不正の富」といえる神の恵みによって、キリストは私たちの友となってくださった。
この神の愛を受けて、私たちは人を愛し赦していく。それが神の愛を知った私たちの新しい生き方なのだ。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
(ピリピ2:6,7)
コリント教会では、派閥争いの問題の他に、偶像にささげられた肉を食べてよいか悪いか、という議論が持ち上がっていた。
まことの神おひとりの他に神はいないのだから気にしないで食べてもいいのだという理解のもとに、それを公然と行ってる人がいた。しかし、正しい知識に基づいたふるまいであったとしても、人をつまずかせるとしたら、それは「キリストに対して罪を犯している」(Ⅰコリント8:12)のだと、パウロは語る。さらに、「もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません(13)と、パウロは自分の権利を主張することよりも、他人への配慮を優先させた。
キリストは天の御座もいのちも捨てて、弱く汚れた私たちを救うために人となってこの世に来てくださった。私たちも、このキリストの愛をもって、自分を捨てて人に配慮していく生き方ができる。そしてそれが、キリストのからだである教会を健全に立て上げていくための秘訣ともいえる。
「神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです」(12:24)。
主イエス・キリストを着なさい。 (ローマ13:14)
ダビデの生涯のまとめとして、サムエル記のしめくくりに記されている詩篇18篇で、「主は私の義にしたがって私に報い」たとダビデは歌っている(詩篇18:1])。他人の妻と関係を結び、彼女の夫を死に追いやるという大きな罪を犯したダビデだが、やがて彼は自身の罪深さを嘆き、「私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください」(51:9)と、神の前に悔い改める。人は、神から義を頂かない限り、神の前に立つことはできない。ダビデは神に「砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」(51:17)を差し出したからこそ、神に「彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する」(使徒13:22)と、その生涯を神に従順なものであったと評価された。ダビデは神が下さった義としての「私の義」を歌っている。
神の国に入るための“ドレスコード”は、義をまとうこと。私たちの義となってくださるキリストを着ることで、私たちは神の前に正しい者として扱われる。このイエス・キリストにとどまろう。
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」(詩篇23:3 )。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)
イザヤ書46章は、バビロンがアッシリアに攻め込まれた時に、偶像の神々を運んで逃げ惑うが、それらが重荷となり足手まといとなり、やがては敵の虜になってしまうことが預言されているところだと言われている。
人間は、目に見える偶像ばかりでなく、目に見えないものをも偶像としてしまうことがある。私たちは偶像というものによくよく注意しならなくてはならない。
神は、「わたしに聞け」(46:3)と言われる。この絶対的なまことの神のことばに聞き従い、人が作り、何もできない偶像からまことの神に立ち返れと主は言われる。私たちを胎内にいる時からにない、生まれる前から運ばれる神は、(3)「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」(4)と、私たちを生涯にわたって面倒を見てくださると力強く約束してくださる。
偶像は私たちの重荷となるばかりか、サタンの虜へと導く。今、私たちを背負って運んでくださるまことの神に立ち返り、神にすべてを委ねていこう。この神が私たちを救ってくださる。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
過越の祭りの会堂でイエスは、やがて人の罪の贖いのために十字架にかかり、天に上り、父なる神の右に着座されることを暗に語る。「しばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」「 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう」(ヨハネ7:33,34)。しかし、祭司長やパリサイ人は、その言葉の意味が全く理解できなかった。
イエスは、律法を守ることにより義人になっていると自惚れて他人をさばいているパリサイ人を、度々辛辣な言葉で批判している。しかし、パリサイ人ではあったがニコデモという男は、イエスに真理を尋ね求め、そこで神の救いを知ることができた。
私たちが求めるべきものは「神の国とその義」。神が自分をご支配されるように自分を神に明け渡し、自分の力ではきよくなれないことを認め、神からの義を頂けるように求めていく。「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(ルカ11:10)というイエスの言葉のとおり、すべての人が、このイエス・キリストを捜し求め、見出していくことを神は願っている。イエスのうちにこそ永遠のいのちがあるのだから。
こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。(使徒の働き9:31)
エルサレムに来たサウロは、弟子たちに信じてもらえず仲間に入れずにいた。そこで、バルナバが、サウロを使徒たちのところへ連れて行き、いきさつを彼らに説明した。 バルナバが仲を取り持ったので、サウロは、サウロは、教会に受け入れられ、その後のキリスト教の宣教の新たな展開を始められた。 そしてそこでもサウロは、命を狙われるが、それを兄弟たちよって、サウロはをカイザリヤ港から、タルソへ送り出され、命拾いをする。
このように、サッカーで言えば、バルナバというアシスト、サウロというストライカー、そして名もなき兄弟たちのパスによって、「教会は、……築き上げられて……聖霊に励まされて前進し続けた……」(31)のである。
教会は神に召し出された人の集まりであり、神によって築き上げられていく。教会(=キリストのからだ)を立て上げるために私たちが召し出されているとは、なんと畏れ多いことか。イエスの御名が全世界であがめられるように、聖霊の力によって、教会は前進していく。
しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。(使徒9:22)
異端を撲滅しようとキリスト教の迫害に邁進していたサウロは、イエスと出会い、それまでの人生すべてか否定された大きなショックの中にサウロだが、彼は数日ダマスコにとどまった後、何と直ちに各地の会堂を巡り歩いてイエスを宣べ伝えた。
「返さなければならない負債を負って」(ローマ1:14)、「私はその罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)と告白しているように、サウロには、神とその民を迫害してきたことへの「負い目」があり、自分自身の霊的な盲目さゆえの振る舞いを悔いている。
サウロが語ったのは、「イエスは神の子であると」(19)「イエスがキリストであること」(22)。自分自身は情けない存在ではあるが、神はどこまでも素晴らしいお方であることを彼は語ったのだ。
サウロは、キリストをあかししたことによって、今度は自分がいのちを狙われるようになるが、キリストの弟子たちの手助けによって、難を逃れ、この先、宣教活動を続けることができるようになる。
私たちも神の力により「ますます力を増し」(22)、証しする者とされていく。
あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハネの福音書 17章22節)
ノアの息子のひとり、ハムの子孫のニムロデはシヌアルの地においてバベルという王国を築く(創世記10:9,10)。「彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。」(11:3)とあるように、当時の最先端の建築技術を用い、町を建てあげていく。さらには、「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」(4)と、権力や技術力で自ら神の座に着こうとし、まことの神に反逆し傲慢な思いを膨らませていく。しかし神は、どこまでも悪の道に走る姿をご覧になり、彼らの言葉を通じなくし、工事は中断し、彼らは散らされていく(6-8)。
権力や技術力を掴んだときにそれをどう用いるかで、その人間の本質が明らかにされる。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(マタイ(20:26)」とあるように、人々に仕える者こそが、神の目から見て一番リーダーにふさわしい者といえる。
神に対する冒涜・傲慢の罪によって繋がり、一つになっていた民は、散らされたが、私たちは、キリストの愛によって繋がり、成長していく。
「(きりすとの)からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる」(エペソ4:16)。
バベルの塔ではなく、私たちは一つとなってキリストのからだを建て上げていこう。
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。(マタイ22:37,38)
パウロはコリント人への手紙第一の7章で「私の願うところは、すべての人が私のよう(独身)であること」(7)と、結婚については消極的とも取れるような言及をしている。「 現在の危急のとき」(26)「時は縮まっています」(29)というのは、終わりの日が近づいていることを予感していたのか、あるいは他に苦難が差し迫って来ている状況があったのか。
今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい」(29)それは、「結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、
心が分かれる(33,34)からだという。もちろん妻をないがしろにするということでなく、神を第一とすることを忘れないようにとの訓戒である。
「あなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるため」(35)とあるように、私たちは、生活のフォーカスがいつも神に当てられ、危急の時、時間がない時として、いつ、患難の時、終わりの日がきてもいいように、心備えをしている必要がある。イエス様は言われる。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24:42)
いつも、心を尽くして主を愛する者となりたい。
主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。(詩篇18:19)
ペリシテ軍との戦いや、サウル王にいのちを狙われていた状況の中で、ダビデは神と向き合い、その信仰は培われ磨かれていく中で、この詩が生まれた。ダビデは、神の助けを「天を押し曲げて降りて来られた」(9)と表現し、人間の次元とはかけ離れた天からの支えがあることを語る。そして、「主はやみを隠れ家とし」と、私たちが問題に取り囲まれても、実は神様はその中に神はいらっしゃることを語る。人生の暗闇は、絶望するためにあるのではなく、私たちが神に出会うためにある、そこで神に叫び求め神のみ手を待つことができる。「主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから」(17)ということばは、パウロの「私が弱いときにこそ、私は強いからです(Ⅱコリント12:10)と、自らの無力を認め、神の力が覆ってくださることを信じて期待していく姿と重なる。
主が御手を延べてくださる利用を、「主が私を喜びとされたから」(19)と述べている。「主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパニヤ3:17)とあるように、神は私たちひとりひとりの存在を喜んでくださっているからこそ、私たちが問題に直面した時に、私たちの叫びを聴き、どんな問題よりも強い力を持って私たちを支えてくださる。私たちひとりひとり、神に愛される者として造られたことを感謝し、歩んでいこう。
私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。(Ⅰテサロニケ 2:11,12)
パウロは、教会になるべく「負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら」(9)宣教に勤しんでいた。そして「敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるま」い、その信仰生活を彼らが見て学ぶように、信仰の親の務めを果たしていたといえる。
「父がその子どもに対してするように」(11)「ひとりひとりに」対して 目を留め、それぞれにふさわしく勧めをし、慰め、命じた。それは、「神にふさわしく歩むように」(12)彼らが成長するのを願ってのことであった。
「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5:48)とイエスが言われたように、私たちは、天の父のように敵をも愛するまことの愛を持つことを期待されている。そして「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと」(エペソ4:23,24)によって、私たちは天の父に似るものとされていく。
パウロは自分が語ったメッセージを「神の使信のことば」と表現し、それを彼らが神のことばとして喜んで迎え入れたことを神に感謝し、この神のことばは、信じている者のうちに働いていると語る。
このパウロの労苦と苦闘の姿に父なる神の姿を見ることができる。神は、さ迷う人間の姿を見て、心を痛め、いのちを投げ出して救いの道を用意なさった。神は私たちひとりひとりの名を呼んで、神にふさわしくなるようにと語られる。
神をまことの父とし、新しい人を着て歩み、みことばがうちに働くとき、私たちは、このお方に似るように、成長していくことができる。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます 。(ヨハネ 6:51)
宮で話すイエスを前に、「出自について明らかなのは、キリストではないかということか」と話す者がいた。それに対しイエスは、「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています」(ヨハネ7:28)と皮肉を込めて語る。
イエスがガリラヤ地方のナザレという村で大工の息子として人として生まれたのは紛れもない事実だが、同時に父なる神に遣わされた神の子であることがわかっていないことを非難することばである。
イエスがすべての権威の上に立つ神から来られたお方なので、私たちはこの方に祈り、賛美する。「聖書はすべて神の霊感によるもの」(Ⅱテモテ3:16)なので、神のことばとしてこれを私たちは受け止める。
イエスは「わたしは天から下って来たパンである」(ヨハネ6:41)と言われたとおり、私たちのたましいを永遠に生かすことのできる無限のいのちなるお方である。
詩篇では、「私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩篇121:2)。歌われているように、私たちは、常に天から来るものに心の目を向けながら歩むことができる。
今、この世からのものとは違う、天から来る喜び、平安、憩い、慰め、救い、永遠のいのちが与えられている恵みを感謝しつつ、歩んでいこう。
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。(Ⅰテサロニケ1;6)
当時のギリシャでは、クリスチャンになるということは、迫害や、いのちの危険にさらされることさえあった。しかし、それでも信仰を表明し、教会に加わったのは、そんなものには負けない、ほんとうの喜び、聖霊による喜びがあったからこそではなかったか。
パウロ自身も、信仰のゆえに投獄され、むち打たれ、死に直面し、伝道旅行で移動の際には難船、盗賊に遭うことなど、幾度も艱難辛苦を経験した(Ⅱコリント 11:24−27)。その彼が、今も迫害にさらされているテサロニケ教会に宛てて書いた手紙の中で、こうも語る。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16-18)。これは、「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)と告白している彼だからこそ言える励ましのことばではないか。
パウロのことばは、今でも私たちを励ましてくれている。どのような状況の中でも私たちは、この世のものとは違う「聖霊による喜び」で満たされることができる。神の恵みに感謝。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)
(ヨナ書4章より)
預言者ヨナは、神からニネベへの宣教を命じられる。一度は拒否するものの、否応なしにニネベで福音を語ると、人々は神様を信じ、その結果神様はニネベを滅ぼされなかった。悪に染まったニネベが滅びなかったことについて、ヨナは腹を立てていた。
ヨナの不きげんを直そうと、神は一本のとうごまを備える。ヨナはその木陰を非常に喜んだが、とうごまが一夜にして枯れてしまうと、「死んだほうがましだ」と自暴自棄に陥る。そんなヨナに神は声をかける。「あなたは当然のことのように怒るのか」。ヨナは神に「死ぬほど怒るのは当然のこと」と怒りをあわらにする。
「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか」と神は、人間一人一人に対する愛を説き、ヨナを諭す。神の愛は、どんな人にも注がれ、すべての人が神に立ち返って歩むことを望んでおられる。
イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)と、すべての人を招いておられる。
ここに、枯れることのない安らぎ、憩いがある。私たちはいつでもここに重荷を下ろすことができる。「世が与えるのとは違」(ヨハネ14:27).うまことの平安がそこにある。
このキリストの招きに応えることが、私たちの喜びであり、神の喜びでもある。そして私たちも、まことの憩いに人々を招く者となることができる。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
(コリント人への手紙 第一 12章27節)
(使途の働き9: 10-19より)
アナニヤは、「通りよき管」として用いられた人物であった。教会の迫害に燃えるサウロがダマスコに向かう途中、天からのイエスの声を聞いた時に、目が見えなくなってしまう。アナニヤは、そのサウロを訪ねて手を置いて祈るようにと幻で主から告げられる。悪評高いサウロのことを耳にしていたが、サウロは「イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器」(15)であると主から告げられ、アナニヤはそのことば通りに行う。するとサウロ目は再び見えるようになり、バプテスマを受ける。この後、サウロはキリスト教史上最大の伝道者パウロとして、歩み出していくことになる。
アナニヤのこの働きは、シャボン玉のストローに例えることができるだろうか。石鹸水はストローを通ってシャボン玉になり、飛んでいく。迫害者サウロはアナニヤの祈りによって伝道者パウロと生まれ変わり、福音が世界に広がっていく足がかりとなった。
またシャボン玉を飛ばすのに必要なものは息であるように、アナニヤは神の息、聖霊の働きを通す管の役割を果たした。
パウロのように各地を飛び回って宣教する者、アナニヤのように動かずに管としての役割を果たしていく者もいる。それぞれ、神のわざにとってはなくてならない働きであり、クリスチャン一人ひとりの違う働きが、ひとつのキリストのからだを形作っていく。
サウロのように、アナニヤのように、私たちも神の奉仕へと招かれている。
このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(Ⅰテサロニケ2:8)
パウロは第二次伝道旅行でテサロニケで宣教したとき、幾人かはみことばを受け入れたが、あるユダヤ人は暴動を起こして、パウロたちを受け入れていた家を襲った。ピリピにおいても捕らえられ鞭打たれ投獄されたパウロ一行だが、それでも彼らは宣教を続けている。教会が生まれるとき、そこには「産みの苦しみ」が伴う。
そして、ピリピ人の教会においては、パウロは自らの権威を振りかざすのではなく、「母がその子どもたちを養い育てるように」(7)信徒たちの信仰を育て上げた。パウロは、「私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたい」(8)と思うほど、彼らを愛していると記している。このパウロのうちに、私たちはキリストの愛を見ることができる。
私たちの救いのために、苦しみをも厭わず、いのちを投げ出し、霊的成長に必要なものをいつも与えてくださるキリスト。そしてその霊が今、主を信じる私たちのうちにも宿っている。キリストのからだである教会が生み出され、成長するために、一人ひとりが労苦を惜しまず献身的な奉仕をしているのを見る時に、感謝の念で溢れてくる。
人間の母親以上の完全な愛で私たちを愛してくださるキリスト。この愛を表す者として、歩ませていただこう。
立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」(使徒の働き9:6)
キリスト教迫害に燃え、ダマスコに向かうサウロ。突然点からの光に照らされ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞く。「あなたはどなたですか」と問うがその答えは、信じられないものであった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
神を冒涜し、群衆を惑わした者として逮捕し、十字架刑にして殺したはずのイエス。そのイエスが天から語りかけているのだという。イエスの教えを排除して国を邪教から守ることに使命感を持ち尽力してきた彼は、天からイエスの声が聞こえたことで、自らの全存在が否定されたようなショックを受ける。
イエスは加えてこう語る。「 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられる」。
私たちの人生にも神が介入してくださる。聖書を徹し、御霊の助けによって神のことばを聞くことができる。時に、神から思いもよらない示しが与えられることがあるが、人知をはるかに越えた神の知恵、神の導きがそこにはある。それを受け止めていく時に、神の計画がなされていく。
自ら築いてきたものがすべて打ち壊されたようば絶望に陥ったサウロであったが、やがて回心後に、その能力が、伝道に、聖書執筆に有効に用いられた。私たちが絶望するような時、それは神のわざがなされる時なのかもしれない。
目が見えなくなりながらも、ともかく立ち上がって入ったダマスコの町は、もはやイエスを迫害する場所ではなく、神からの新しい使命を受け取る場所と変えられた。私たちもいつも神に触れていたき、新しい生き方を始めることができるよう、神に求め、期待していこう。
神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。(エゼキエル 11:17)
(創世記10章より)
洪水の後、ノア息子、セム、ハム、ヤペテから増え広がっていった氏族の系図が記されている。
ヤペテは北方に、ハムはエジプトなど南方に、その氏族を広げていく。ハムの子孫ニムロデが権力を持ち、大きな町をいくつも建て上げたことが記録されているが、その中にあのバベルの名もある。ハムの子カナンが広げた領土の中にも、ソドム、ゴモラという、悪名高い名が見られる。
そして、セム族は東方へと広がっていく。セムの子孫のエラムがヘブル人の名の由来だとされる。
神は、散らされたものを集めるお方、あり、それが聖書の福音の中心的なメッセージといえる。そして、私たちの宣教の目標も、霊的に離散した民を再び神のもとに呼び寄せることである。
ペテロに「網をおろして魚をとりなさい」と主が語られたように、私たち自身が網となり広がり、散らされた者のところに遣わされるのです。そのために私たちは今、神様に呼ばれている。
主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。(ルカ4:18)
「使徒信条」の中の一節「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」ということば、ピラトはローマの総督として紀元26~36年に在位した人物。イエスを問いただして、彼には死罪にあたる罪はないと知りながらも、イエスを捕らえた祭司長たちや彼らにそそのかされた群衆の圧力、また妻の進言に負けて、イエスを処刑することを決定する。
しかし、これらすべてのことは、神がご計画されたことだったのです。人の罪を赦すためには、罪のないものを代わりに処刑するしかない。そして犠牲として選ばれたのが、神のひとり子、イエス・キリストであった。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)とあるように、キリストは、私たち人間を友として迎えてくださり、私たちのためにいのちを捨ててくださった。
イエスが宮で朗読した「主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を……」(ルカ4:18)というイザヤ書61章のことばは、他国の捕囚の民となっても開放されるという預言のことばだが、同時に、私たちを罪と死の奴隷からイエスが開放してくださることを語っている。
イエス・キリストが人類救済のために十字架で処刑されたのは、今から約二千年前の、ポンテオ・ピラトが総督だった時の史実なのである。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:11)
「ガザに下る道に出なさい」(使徒8:26)という神のことばに、ピリポは、サマリヤでの宣教においての大成功に浸ることなく、すぐに立って出かけた。そこで、ひとりのエチオピヤ人の宦官に出会うこととなる。「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」という聖霊の声に促され、ピリポは、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と声をかける。宦官は「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と答え、「ほふり場に連れて行かれる羊のように」と表現されているのは、誰のことなのかと、ピリポに尋ねる。
神に対してたましいが飢え渇いているこの宦官にピリポはイエス・キリストを説く。そのことばを受け入れた彼は、水のある場所を見つけ、すぐさまピリポに請い、バプテスマを受けた。そして彼は、「喜びながら帰って行った」(39)。
ピリポがサマリヤで神の言葉を語ったとき、「その町に大きな喜びが起こった」(8)ように、福音は大きな喜びをもたらしていく。エルサレムでイエス・キリストの救いの喜びに与ったピリポは、サマリヤにその喜びを伝え、今、ガザで出会った宦官がその喜びをエチオピヤに持ち帰ろうとしている。
人に喜びを伝えるのが神の思いであり、そのわざが私たちに委ねられている。私たちは遣わされる先々において、「喜びの使者」となることができる。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
(Ⅰペテロ4章8節)
ノアとその家族が箱舟から出てからのある日、ノアはぶどう酒を飲んで酔っ払い、天幕の中で裸になっていた。父の失態を見つけた息子のハムは、兄たち(セムとヤペテ)に告げ口し、辱めようとしたが、セムとヤペテは着物を取って、父の裸を見ないようにうしろ向きに近づき、父をおおい、父の威厳を尊重した。酔いから覚めたノアは、ハムには呪いを、セムとヤペテには祝福を宣言する。
人間はどこか、人の欠点や失態を暴き、責め立て、晒して辱めようとする性質を持っているが、神は私たちの罪を知りながら、なおも愛し、キリストの血によって罪をおおってくださり、キリストを信じる者を、全く罪がない者として見てくださる。
詩篇では、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれ人は。幸いなことよ、主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は」(詩篇32:7)とうたわれている。ここでの「おおわれ」は、「覆い隠す、覆い消す」とも訳されることばで、人間すべての罪と汚れを、神ご自身がその血潮で覆い隠してくださること。「お認にならない」は「数え上げない」とも訳せることば。「数えてみよ主の恵み」と私たちは歌うが、神は私たちの罪を数え上げようとはなさらないのだ。
キリストの贖いによって私たちのうちに罪を認めない神に感謝し、また神が人を見るような目で私たちも人を見ていけるように、主に願おう。
自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネ7:18)
祭りで賑わう都に出ていき、奇蹟を見せて人々の関心を買うようにと勧める兄弟たちの声には耳を貸さず、イエスは内密に都に上っていく。巷では、イエスについて「良い人」「惑わす者」など、いろいろと噂されていたが、ユダヤ人を恐れ、公然と語る者はいなかった。私たちはイエスについて、人前ではっきりと語ることができない場合がありはしないだろうか。恐るべきただひとりのお方のみを恐れ、誰の前でもイエスに対する信仰を告白する者でありたい。
宮で公然と語るイエスを見て、「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」(15)とユダヤ人たちは驚くが、「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです」とイエスは答える。イエスが語ることばは父なる神のことばである。また「父がなさることは何でも、子も同様に行なう」(5:19)とあるように、イエスの行動は常に父なる神の行いである。イエスは自分が注目を浴びたり名声を得ることではなく、常に父なる神の栄光が表されるために行動していた。
私たちは、ただ私たちも父なる神のみを恐れ、神が栄光を受けるためだけに生きたい。それはただ御霊の力によって成し得る。
そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。(ヨハネ 7:6)
盛大な仮庵の祭りが都で行われようとしている時、イエスの兄弟たちは、「今こそ都に行って奇蹟を大勢の人に見せればいいではないか」と、イエスに進言する。ユダヤ人たちに睨まれ、弟子たちからも見放されたイエスを、身内はどんな思いで見ていたのだろうか。しかし、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と、それを断る。ヨハネの福音書の「わたしの時」は、イエスが十字架上で人類の罪を贖う時を指しているが、イエスが地上に来た目的は、まさにそこにあり、イエスは十字架を目指して地上の生涯を歩まれた。
大勢の人の前で驚くようなパフォーマンスを見せれば効果的な宣伝となるだろうが、しかし、イエスがみわざをなすときとイエスの宣教の方法は人間のそれとは違った。人間が考えるチャンスと神の機会とは違うことがある。神は最善のときに最善の方法でみわざをなさるお方なのである。
ヨハネの福音書は、イエスの十字架上での最後の言葉を「完了した」と記している。贖いのみわざの預言が、まさにその時に成就した。この事実をもって、私たちはいつも大胆に贖われたものとして、歩むことができる。サタンのどんな攻撃の言葉にも立ち向かっていくことができる。
そして、私たちの生涯のうちにも、神の時にみわざをなしてくださることを信じ、期待しつつ歩んでいこう。
他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。(使徒8:4)
サウロはステパノを殺すことに賛成し、その責任のもと、ステパノを捕らえた者たちは彼を石打ちにする。サウロは、邪教を排除し、純粋なユダヤ教を保つという使命に燃え活動していた。そして、民衆を巻き込んだ教会への迫害が始まり、イエスの弟子たちの多くは、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされていく。
しかし、「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」とある。彼らは意気消沈して隠れるように暮らしたのではなく、この機会をそれぞれの地で神のことばを伝えるチャンスとして用いた。まさに、「ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで私の証人となる」(1:8)というイエスのことば通りになったのである。
私たちも不本意ながら別の場所に移ることを余儀なくされることがあるが、イエスが共にそこに出かけてくださる、と捉えることができる。そして、その先々でイエスを証しすることができるのである。
ステパノと同じ執事であったピリポは、当時ユダヤ人が敬遠していた「サマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた」(5)。「 それでその町に大きな喜びが起こった」(8)のである。
教会が迫害されることによって、みことばが思いもよらない所にも広がっていき、大きな喜びをもたらす結果となっていった。ピンチがチャンスに、マイナスがプラスに変わっていくのが、福音の力。この福音を携えていることができる恵みに感謝しよう。
ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(コリント人への手紙 第一 5:8)
パウロは、コリントの教会においての分裂・分派に続いて不品行の問題を挙げ、「あなたがたは誇り高ぶっています」(2)、あなたがたの高慢は、よくないことです(6)と、それらは高慢な心と深く結びついていると説く。
自分自身の真実の姿は、自分にはよく見えないことがある。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(第二テモテ3:16)とあるように、私たちの「歪み」を聖書は矯正する。パウロは、「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか」(6)と罪を放置する危険性を語る。身体の一部の歪みからいろいろな病気が発症するように、小さな罪を放置していると、そこからいろいろな問題が起こり、やがてたましいの滅びに至ってしまう。時に聖書には、時に耳障りであり、心に痛みも伴うこともあるが、私たちはこの聖書にしっかりと向き合い、みことばに心を照らされ、祈り、御霊なる神様に触れていただいて、正しいたましいへと変えてくださるように、祈っていく必要がある。
そしてパウロは、「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです」(7)と、過越の祭りのときに食する種なしパンに教会を例える。私たちの罪はすべてキリストが贖ってくださったこと、キリストの血が私たちをきよめること、私たちはもはや罪の奴隷ではないことをいつも確認し宣言し、私たちの弱いところにキリストのみわざが現れることを、信じ、期待していく。私たちは古いままであってはならない。
贖われたものとしてふさわしく、きよめられた者としてふさわしく、この年を歩んでいこう。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイの福音書1:23)
ヨセフは、自分の見に覚えのないことで、妻と決まっていたマリヤの妊娠を知り、激しく動揺する。普通に考えれば、マリヤの不貞行為によるものであり、ヨセフは、このことを公にして彼女を糾弾するか、離婚状を提出して離縁することができた。考えた末ヨセフは、 彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。「正しい人であって」(19)ということばに、神の前に忠実に歩んでいた人柄が伺える。
そのような中で、彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて、「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と語る。「ダビデの子ヨセフ」ということばで、ヨセフがダビデの子孫であること、イスラエルの民を救うメシヤは、ダビデの家系から生まれるという預言を思い起こすことを促している。「その胎に宿っているものは聖霊による」ということは、まったく人間の理解を越えた出来事。神は人間の知恵や人間の正しさを越えたみわざをなさるお方である。神の権威によって、神の霊によってなされることの前には、人間はただ沈黙するしかない。
そして、このことはイザヤ書の預言の成就であるとマタイは記している。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14 )この、神がともにいることがしるしなのだと、神は語る。モーセに召命を与えた際も、「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。」(出3:12)と、神はモーセに語られた。神が人間に与えたしるしは、神が私たちとともにいる、インマヌエル、なのだ。
そして、このインマヌエルなる神が人間としてこの世に人に見えるような姿で来られたのが、クリスマス。まさに驚くべき出来事出来事。この神への畏れと感謝と喜びを表していこう。
見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。 (使徒の働き7:56)
ステパノは自分を捕らえたユダヤ人たちに対し、「いつも聖霊に逆らっていて、律法を守ったことがない」と断罪する(51,53)。このことばに怒りを燃やした彼らは、ステパノを殺そうと周りを取り囲む。自分の身の危険を感じたステパノは、天を見上げこう言う。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」 (7:56)。神を冒涜することばと捉えた彼らは、大声で叫びながら耳をおおい、彼を町の外に追い出して、石で打ち殺してしまう(57.58)。
体中の激しい痛みと遠のいていく意識の中で、ステパノは祈る。「主イエスよ。私の霊をお受けください」(59)「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」(60)。これは、十字架上のイエスの言葉に倣ったというよりも、イエスとその心が一つになっていたからこそ出たことばであろう。「敵を愛し、迫害するもののために祈る」イエスの姿がそこにはあったのだ。命を奪おうとする者たちに囲まれて天を見上げた時、ステパノは、イエスと同じ苦しみに与ることの喜びと感謝の思いで満たされ、平安に包まれていたことだろう。
この時、クリスチャンを迫害していたサウロ(後のパウロ)が間近で見ていた。ステパノの最期の姿を見て、何を感じたか。後に「死んでくださった方、いや、よみおがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)というパウロの手紙のことばは、このステパノの最期の姿が脳裏にはっきりと焼き付いている証拠ともいえる。
「世全体のための──なだめの供え物」(Ⅰヨハネ 2:1)となるために、神の座を捨てて人となってこの世に来た。クリスマスは、その神のまことの愛が現された出来事。今、その主の栄光を見上げよう。
その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:23)
ステパノは説教の締めくくりの部分で、神の幕屋、神殿について語る(使徒の働き7章)。「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません」(48)と、神殿と律法を絶対視・神聖視するユダヤ人を批判する。神の臨在の象徴である神殿が、ユダヤ人にとっては、自分たちの権威の象徴となってしまってたのである。ダビデの思い描いた神殿を完成させたソロモン自身も、「神ははたして地の上に住まわれるでしょうか」(Ⅰ列王 8:27)と語っている。これは、物理的・空間的な大きさというよりも、人智をはるかに超えた存在であるという告白である。
ステパノは、「あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか」というイザヤ書66章1-2節のことばを引用するが、聖書に精通していたユダヤ人たちは、その後に続く「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」ということばを自分たちへの皮肉として語っていることを悟ったことであろう。
神の臨在の象徴である神殿が、ユダヤ人にとっては、自分たちの権威の象徴となってしまっていたのである。ダビデは神に「あなたを喜び、誇ります」と告白しているが、私たちは神以外のものに権威を見出してしまう弱さがどこかにあるのではないだろうか。
最後にステパノは、ずばり「心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっている」(51)と、彼らを断罪する。聖霊が働いて、信仰者を通して、歴史を通して、そして聖書全体が、このメシヤ、救い主キリストの到来を預言しているのにもかかわらず、それでもキリストを否定するということは、神の御霊に逆らっているということにほかならない。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる」(Ⅰコリント3:16)とあるように、今、神は私達自身を御住まいとしてくださる。神が「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる)なるお方であることが具現化した出来事がクリスマス。この大いなるみわざの前にかしこまって過ごしたい。
このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。
(使徒の働き7:37)
ステパノは、モーセのような、究極の預言者ともいえる存在がイエス・キリストであると説く。人々に拒まれたモーセを神は選び、使命を与えた。それと同様、「家を建てる者たちが捨てた石。それが礎の石となった」(Ⅰペテロ2:7)とあるように、キリストは、多くの人から拒まれ軽んじられるが、実は彼こそが、人類が救われ神の国が立て上げられていくための、唯一の土台となった。
モーセが「支配者また解放者として」(35)神からの立てられたように、キリストは私たちを暗闇の支配から自由にし、新しい主人となってくださった。そして、キリストこそが「生けるみことばを」(38)与えてくださるお方なのである。
一方、モーセがシナイ山で神から十戒を授かっている間、ふもとで待ちきれなくなった民は金の子牛を作りそれを拝んでしまうという大きな過ちを犯す。私たちはこの世の、人の手によるきらびやかなものに心を奪われて、まことの神を忘れてはならない。
「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ人1:13)。私たちの、そしてこの世の「闇」に光を灯すためにキリストは来てくださった。私たちの人生を導くお方、私たちをいつでも自由にしてくださるお方、いのちのことばを与えてくださるお方。このキリストを、待降節(アドベント)のこの時、心にお迎えする準備をしていきたい。
ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。 (創世記8:20)
神がノアに箱舟を作るように命じたのが、ノアが500歳の時。600歳の時に洪水が起こり、601歳の時に水が引いたの。神からのことばがあってから、実に長い年月が経って、そのことば通りのことが起こった。
ノアはその間、ひたすら神の言葉を信じ、その通りに行っていった。私たちは、神様に願い事をしてそれがすぐに答えられないと、神様は不親切、神は自分を見捨てている、神はこの状況を理解していない、はたまた、神などいないなどと思ってしまいがちだが、神は、神の最善のときに、最善の方法でみわざをなしてくださる。そのことを信じて、望み、待ち続けるノアの姿勢を学びたい。
1年前に「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい」(7:1)とノアに語りかけた神は、この時も「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい」と命じる。家長であるノアに対して、家族をまとめ、皆一緒に上を見上げて歩むようにとの期待が込められているようだ。信仰者の姿を見た家族が、ともに神を見上げて歩むようになるとしたら、それはなんと素晴らしいことだろうか。「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(マタイ12:50)と、私たちは神の家族となっていくことが期待されている。
箱舟から出てきたノアは、「主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた」(20)。人類の再スタートといえるこの日、ノアはまず、神に礼拝をささげた。神はまさしく真実のお方である、という大きな畏れに包まれたノアは、神の前にひれ伏すことしかできなかった。神を神とし、神を第一としていく生き方を改めて神に表明したのである。
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)とあるように、私たちの存在、いのち、持てるものすべてを神におささげする歩みこそが、神に造られた者の歩みなのだ。
神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。(創世記8:1)
神は、箱舟の中にいるノアばかりか、すべての獣や家畜に心を留めておられた。「空の鳥を見なさい」(マタイ6:26)「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」(マタイ6:28)とあるように、鳥を養い、花をも装ってくださる神は、もっとすぐれた人間をことのほか愛し、見守っていてくださる。
1年間の中で生活することを余儀なくされたノアたちだが、その間、神はノアを洪水の危険からかくまっていてくださっていた。私たちがどこにも進めないような時、どこかに閉じ込められているように思う時、それは神が私たちを見捨てているからだと思う必要はない。私たちが危険に遭わないように、あるいは私たちの傷が完全にいやされるまで、神が盾となって隠れ場となって、かくまっていてくださる時なのかもしれない。神はいつでも私たちを心に留めていてくださる。
そして、「神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた」。あの出エジプトのときも、後ろからはエジプトの軍隊、行く手は海に阻まれて絶体絶命と思われた時、「モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた」(出エジプト14:21)。それでイスラエルの民はその乾いた道を進みゆくことができた。神はその力をもって、私たちの周りを取り囲む困難、私たちの前に立ちはだかる苦難を取り除くことができるお方。
まさに「試練とともに脱出の道も備えてくださ」るお方なのだ(1コリント10:13)。
大地が乾いたかどうかを確かめるために放った鳩がオリーブの若枝をくわえて戻ってきたのを見て、ノアは再び大地にいのちが芽吹いたことを知り、心が震えたことだろう。
常に私たちを心に留めておられる神は真実なお方。ここに私たちの希望がある。
ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
(Ⅰコリント4:16)
パウロはコリント教会の人々に、「この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです」(15)と、コリント教会を生み出した自分こそが、信仰という点においては父親であることを語る。そして、子が親に似ているように、「私にならう者と」(16)なることを願う。これは、決して自負心や驕り高ぶりや思い上がりからの言葉ではなく、むしろ、神のまえに低くされた者としての言葉である。
パウロはもともとはクリスチャンをを見つけては捕らえ、徹底的に教会を迫害し、滅ぼそうとしていた人物であった。しかしその彼が不思議な方法でキリストに捕らえられ、神の「選びの器」となり、キリストを宣べ伝える者と変えられた。「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」(Ⅰコリント15:10)と、自分には誇れるものなどなく、すべては神の恵みである。それぞれが信仰を持ったのも、すべて神の恵みなのではなかったと、自らを省みてほしいとパウロは願っている。
さらに、伝道旅行の途中で出会ったテモテを送ることを知らせる。それは、「キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれる」(17)からであるという。
パウロやテモテがキリストにならって歩んだように、私たちも主にならう生き方をすること、さらに私たちを通してキリストにならうキリストの弟子が起こされていくことが、神に期待されている。
ただひとつ願うのは、主のようになること。
私たちはキリストのために愚かな者です(Ⅰコリント4:10)
パウロは感情的を高ぶらせて、コリント教会の人々を痛烈に批判する。「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか」と、コリント教会の人々が高慢になっていることを指摘する。人間は神から頂いたものでないものは一つもなく、自分自身を誇ることなどはできない。パウロは「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:16)とも語っている。
パウロは自分たち使徒の召命について「神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました」(9)と振り返る。神に仕えるということは、イエス・キリストが人々から嘲られても、まるで「ほふり場に引かれて行く小羊のように」(イザヤ53:7)十字架に向かっていった姿の後に従い、キリストの謙卑に倣っていくこと。「 私たちはキリストのために愚かな者です」と、自分を含めた他の教会の指導者たちのは、キリストと同じく、この世では自分から愚か者と見なされる道を歩んでいることを説く。
パウロは「愛する私の子どもとして、さとすため」(14)に、厳しい口調で戒めているのだと記している。「主の懲らしめを軽んじてはならない」(ヘブル12:5)とあるように、私たちは、父なる神が語られる叱責のことばを受け止めていきたい。
私たちがキリストに似ていく者として成長していくことを神は期待し、見守っていてくださる。
こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。(Iコリント4:1)
パウロは、自分を含めた教会の指導者たちのことを、「キリストのしもべ」「神の奥義の管理者」と考えるようにとコリント教会に教える。決して分裂、分派を生み出すリーダーなのではなく、キリストのしもべであり、キリストのわざに仕えている者、さらに「神の奥義の管理者」であることを語る。奥義、というのは、隠されている真理であり、ここでは人間の知識・知恵では全く想像もつかない神の知恵による救いのみわざ。「十字架のことばは、滅びに至る人々には、愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力」(Ⅰコリント1:18)とあるように、福音を管理するしもべとして召されていることを語る。
そして、さばき主なる神を差し置いて先走ったさばきをすることや、聖書に記されている以外の「律法」を作り、他人を批判する材料にしてしまう人間の危険性について警告している。それらは人間の高慢さから来る。
主を信じる私たち皆、神の奥義の管理者として、奥義である十字架の言葉、福音を神から託されている。自らがこの福音に生き、福音を携えていく者でありたい。
主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
(詩篇15:1)
すべてを創造し、すべてを統べ治めておられる神の住まいを宿とする、あるいは住むことができる人がいるとすれば、それはなんという身に余る光栄だろうか。この詩の書き出しは、そんな栄誉に与ることができる人は一体誰なのかと始められている。
それは、「正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人」(2)なのだという。「正しく」という言葉は「まっすぐ」「完全な」という意味の言葉で、神の教えに従って、まっすぐに歩む人。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」(イザヤ書30:21)とあるように、私たちは正しい道を歩むために、神が語られることばを聞き逃さないようにしなければならない。また、「その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない」(3)と、舌を完全に制御することができる人、さらに、「神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ」(4)と、自分の都合よりも、神の視点で物事を判断する人。さらに、「損になっても、立てた誓いは変えない」。その姿は、人類の身代わりになって死ぬために神の座を捨てて地上に降りてきたイエス・キリストを彷彿とさせる。最後に詩人は、「このように行う人は、決してゆるがされない」と結んでいる。キリストという土台としている人生は揺らぐことがない。
ここに描かれている人の姿は、神の家に住むための条件や資格ととらえるよりも、神とともに歩むときの祝福・特権ととらえることもできる。
この祝福の家に私たちは招かれている。ダビデは詩篇23編で、こう謳っている。「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。
(ヨハネの福音書 6:70)
「わたしは天から下ってきたパンであり、わたしを食べる者は生きる」と語るイエスに対し、「これはひどいことばだ」と反応したのは、それまで熱狂的にイエスを追いかけてきた弟子たちであった。彼らはイエスのことばにつまずいた。
「『家を建てる者たちが捨てた石。それが礎の石となった。』のであって、『つまづきの石、妨げの岩』」(Ⅰペテロ2:7-8)とペテロが記しているように、キリストは、多くの人から拒まれ軽んじられるが、彼こそが、人類が救われ、神の国が立てあげられていくための、唯一の土台となる。イエス自身も「わたしにつまずかない者は幸いです」(ルカ7:23)と語っている。
イエスはさらに、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」と、神に造られた人間にほんとうのいのちをもたらすものは、この世のものではなく、御霊であると説く。ここでいう「いのち」は肉体的な生命でなく、神との関係においてのいのち。イエスの贖いを信じたものは、御霊により永遠にいきることができる。
さらにイエスは、「あなたがたのうちには信じない者がいます」(64 )と弟子たちの中から自分を裏切るものが出ることを語る。シモンの、「主よ。私たちがだれのところに行きましょう」という言葉も虚しく、彼はイエスを見捨てて逃げ出した挙句、イエスの弟子であることを否定しまう。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか」というイエスの慰めと慈しみに満ちたが響く。
神は、私たちの弱さや罪深さを十分知った上で私たちを愛し、選んでくださった。だから私たちは、人々が捨てた石であるキリストを礎石として、ここに神の国を築き上げていく。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。(ヨハネの福音書6:55)
五千人の給食の奇蹟により、イエス・キリストに対する群衆の思いはますますヒートアップしていく。そんな彼らに対し、イエスは自身を、天の父から遣わされたいのちのパンであると話す。さらに「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのためのわたしの肉」(51)であるという。「どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」(52)というユダヤ人たちの疑念のことばへの解答こそ、著者ヨハネがこの福音書において一番書きあらわしたかったことであるかもしれない。キリストの十字架での死が人類の贖いのわざだと信じ受け取る者が、永遠のいのちを持つ。キリスト者は、絶えずこのみわざを覚え、神の愛が表わされた十字架のもとにとどまる。主は、「わたしを食べる者も、わたしによって生きる」(57)と、私たちが神にあるいのちに生きることを期待してくださる。
「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だ」(55)とあるように、イエスはこの世のものでは満足させることのできない、霊的なパンであり、私たちの存在そのものに永遠のいのちをもたらす。人智をはるかに超えた神の愛が、この救いのわざをなしてくださった。神を仰ぎ見ながら、歩んでいこう。
さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。(使徒の働き7:34)
母親から出自について聞かされていたであろうモーセは、40歳になった頃、同胞のイスラエル人を顧みる心を起こす。そんな時、彼はイスラエル人を虐げているエジプト人を殺してしまい、逃亡生活を送ることになる。彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられるという自覚があったが、その志は打ち砕かれ、遠くのミデヤンの地に身を寄せ、家庭を持つ。ひっそりと暮らしていたモーセに神が語りかけたのは、実にその40年後であった。燃える柴の中から神は、「わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。」(使徒の働き7:34)。神は、苦しめる者の叫びの声をそのままにしておかないが、、モーセがイスラエルを救う指導者として立つためには、王女の子として最高の教育をもって育てられ、知識と技量を体得しただけでは不十分であった。神は彼に、自らの起こした事件によって40年間逃亡生活をするという、徹底的に打ち砕かれるという期間を与えた。その後、神はモーセを召し出したのだ。
「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)。神は、ご自身の前に謙遜な者を用いる。聖い神からの語りかけがある時、ただ神の前に畏れかしこみ、ともにいてくださる神に信頼しつつその声に聞き従いたい。
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって神の子どもです。 (ガラテヤ 3:26)
ステパノの説教は続き、モーセの話に移る。
エジプトの王は、エジプト内で強大になっていくイスラエルの民に恐れを抱くようになる。王はイスラエルの民を奴隷状態にして苦役を課し、男子が生まれたら殺すように命じる。この記事は、キリストの誕生を恐れたヘロデが2歳以下の男子を皆殺しにした出来事を彷彿とさせる。そのような時にモーセが生まれる。助産婦はモーセを助けようと、パピルスのかごに入れナイル川に流すが、それを何と王の娘が見つけ、自分の子として育てることにする。そして、王家の最高の教育を受けて、モーセは育っていく。
モーセのパピルスのかごは、ノアの箱船のように、キリストにある救いの予型と見ることができる。赤子のように何もできない者を神は確かな救いに入れていくださる。そして、王家の子として育てられた姿は、神に背き滅びに向かっている者が、救われて神の子としての立場を得るようになる神の救いを表しているかのようだ。私たちがキリストにより、「王の王」とたたえられる神の子となっているとは、何と驚くべきことだろう。そして、すべての権威の上に立つ神が、「求めなさい、そうすれば与えられます」(マタイ7:7)と呼びかけてくださる。 「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださ」るのだ。(エペソ1:3)。その祝福には、神のひとり子が犠牲となることが必要であった。
最高の学問を教え込まれたモーセは、ことばにもわざにも力があったという(22)。王の王なる神の子である私たちは、ステパノのように「恵みと力とに満ちて」(使徒6:8)歩みたい。
ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。(創世記7:23)
この地上に悪が増大し、暴虐で満ちている様をご覧になった神様は、人を地の面から消し去ろうとなさる。しかし、主の心にかなっていたノアを助けるために、神に箱舟を作るように命じられた。ノアは、ひたすら箱舟を作り続ける。その間、人々は洪水が起こるというノアの話には耳を傾けることをせず、あざ笑い、たかをくくる。しかし、いよいよその時はやってきた。ノアと家族が動物と箱舟に入ったとき、「主は、かれのうしろの戸を閉ざされた」(16)。神がその救いの扉を閉ざす時が来る。神がその主権を握っておられる。「主の日が夜中の盗人のように来る」(Ⅰテサロニケ5:2)のであるから、私たちはいつも「心を整え身を慎み」(Ⅰペテロ4:7)、備えていなければならない。
「水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた」(19)。人間はたとえどんなに立派なことを成し遂げても、神の義、という水準に達することはできない。すべては、さばきの中に飲み込まれてしまう。それに対し、ノアが神のことばに従って造った箱舟は、「水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった」(17)。神の前に自分を低くした者を神は救ったのだ。
いのちをつないでいくために、ノアとその家族は箱舟に入った。私たちも、この神のいのちを伝えていく、つむいでいくために、神の家族となっている。神は、創世記の1章で人間に最初に語られたことばを、この後、再びノアに語る。「生めよ。増えよ。地に満ちよ 」(創世記9:1)と。私たちが、この神の家族を増やしていき、この地を満たしていくことを、神様は願っていらっしゃる。
そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。(Ⅰコリント 3:23)
パウロは、教会は「神の神殿」であり、派閥争いをしているということは、その神殿を破壊する行為なのだとコリント教会を諫める。さらに、この世の知恵と神のそれは全く異質なもので、神はこの世の知恵を退けると語る。
パウロは、「すべては、あなたがたのものです。」と、神以外の何物にも支配されない行き方を勧めている。被造物に心を支配されているのは、その奴隷であり、所有となっていること。しかし、私たちを所有しているのは、キリストであり、神なのである。神を離れた私たちを、神はなおも愛し、キリストによって再び神のものとしてくださった。
私たち一人ひとりが神のものであり、教会も神の所有物である。私たちはこの神の神殿を壊すことのないよう、建て上げていくために、召されて、そのわざを託されている。持っているものを主の前に差し出していく時に、神様はそれを用いてくださり、この教会を建て上げていかれる。